心理学の深みから「自分がどこに立っているか」を中心に福音を解く試み

土の器シリーズ

沖縄大好きの指導司祭のカプチン会司祭黙想会の半分が済んだ。「土の器」が基本テーマであるというのは魅力的。導入の「土の器の中に納めた宝」は2コリント4.6-7「…神の栄光を悟り光を与えてくださいました。…わたしたちは、このような宝を土の器に納めています」から。昨日の第1講話は「私が選んだ器」(あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らに私の名を伝えるために私が選んだ器である使徒言行録9.15)。第2講話は「土の器」である私の分析。「自分」に拘ってきた者としては、ジョハリの窓ていどでさらっと済まして、MEの「自分との出会い」や創世記1章の調和の話あたりを解くところだが。自分の中のアニムス(男性性)とアニマ(女性性)の共存から女性との付き合い方まで細かすぎると思った。人のこと言える立場ではないのだが。シスターもいるし、教会の大半が女性で占められているという現実を見れば等閑視できないことではある。

壊れた器

今日のテーマ「壊れた器」は詩篇からの引用。「人の心は私を死者のように葬り去り、壊れた器と見なします」(詩篇31.13)。これも魅力的なテーマであるのである上に、取り上げた聖書の箇所が、大好きな放蕩息子のたとえ話であっただけに思わず身を乗り出したが、やはり心理学の授業。むしろ、聖母訪問の祝日にちなんでなされたミサの説教は生きた体験談で感動した。

奇跡の生還

穏やかな表情の聖母子は心が和む。米軍兵士との間に生まれた少年が泥酔した挙句に転落事故を起こして瀕死の重症で担ぎ込まれた病院での話。指導司祭とは先生と生徒。手を取って話しかけても反応なし。医師も頭を横に振りながらマズ見込みないか植物人間。いつも大きな声で叱ってばかりいたことを思い出し、大きな声で言った。「ボクが誰か分かったら手を握りなさい!」彼はそれに答えた。「神様この子に命を与えてください」と必死に祈ったという。少年は回復し、復活祭が近くなるとトラック一杯のランの花が届くようになったという。要するに、御子を宿されたマリアさまとエリサベトが喜びに満たされたように、司祭も同じように「キリストさま」を運ぶ者として喜びをもたらす者。「キリストさまが働くので病人訪問や弱い人々を大事にしてください。」

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