モハメド・アリ悪役のイメージがある稀有のボクサーはアメリカの人種差別にもKO勝ちした!

ついに聖書の庭のオリーブに実が付いた。 それでも!Blog

アリとの出会い

最近外を走ることは全くなくなった。転勤司祭の置き土産である大きなテレビを見ながらの室内ランがすっかり生活の一部になった。最近、画面から、間欠的に現れる視聴申請要求の黒幕が消えてストレスフリーでBSを楽しめるのもいい。5時の終礼が終わると冬用の長そでにもう1枚重ねて上半身は真冬。ランニングマシンで50分、自転車10分というのが日課。その時間帯はドキュメンタリーのようで、今日はモハメド・アリ。「1964年にネーション・オブ・イスラムへの加入を機に、リングネームをカシアス・クレイからモハメド・アリに改めた」のだという。

国とも戦った

晩年のアリそのアリが稀有のボクサーだったということは知っていたが、当時、アメリカが本格的に力を入れたベトナム戦争への兵役拒否をしたためにタイトルを剥奪され、試合も禁じられ、1967年禁固刑に服したという一連のできごとは初耳だった。それでも「ベトコンに恨みはない」と言って断固従うことはなかったという。当時の戦争支持者は国民の50%に達していたが、「金持ちの息子は大学に行き、貧乏人の息子は戦争に行く。そんなシステムを政府が作っている」と国を批判し続けた。こうしたアリの一貫した態度に多くの若者が賛同し、黒人解放に向かっての民権運動が大きく前進し、戦争支持率低下に弾みをつけることになった。やがて、連邦最高裁はアリへの有罪判決を破棄。

改革者アスリート

彼を紹介するウキペディアは次のように結んでいる。「やがてアメリカ中に、アリがキャリアを犠牲にしてまで貫いた信念と、彼への支持の輪が広がった。以来、これほどの社会的インパクトを残したアスリートはいない。アリが「ベトコンには恨みがない」と言ってから50年後、プロアスリートたちは社会問題について立派に意見を述べるようになった。自らの選手生命を賭けたアリはアメリカに国の歴史上最も多くの犠牲者が出た戦争に関わる、階級問題と人種問題に抗議する「声」をもたらした。」

頂点に立ったアリ

頂点に立ったアリの心境は?

いまだに人種差別から完全に脱しているとは言い難いアメリカの負の遺産に、一人公然と立ち向かったアリの信念は称賛に値する。そして「2005年11月9日、アメリカ合衆国のホワイトハウスにて文民に送られる最高の勲章である大統領自由勲章を授与された。」彼は多くの語録を残しているが、「友情は、この世でもっとも説明しづらいものだ。それは学校で教えてくれる知識じゃない。でもその意味を知らなければ、実際何ひとつ知らないのと同じだ」。何やら哲者風でもある。ハーバード大学の卒業式に招かれた時に学生たちに送った詩は、世界で最も短い詩と言われている。「わたし、私たち」。どんなコンテキストで語られたのか知る由もないが詩人の素養もあった?自分と同じ1942年生まれというのも親しみを増した。2016年6月3日死去。*ウキペディア「モハメド・アリ」を参考にした。

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