四旬節もあっという間に過ぎ、復活祭とそれに続く八日間もあっという間に過ぎた。

駆け足でオクターバ

モッコクに包まれたマリア様

モッコクに包まれたマリア様

復活祭が過ぎたこの一週間はオクターバ。オタクバーではない。つまり復活の8日間。復活の月曜日、復活の火曜日、…と呼ぶ。毎日のミサでは日曜日と同じように栄光の賛歌が唱えられ、答唱詩編前に復活の続唱も唱えられる。任意とあるのでパスしてもいいのだが、僕は好きなので毎日歌った。そして復活の主日の次の主日の今日は聖パウロ・ヨハネ二世教皇の意向により「神のいつくしみの主日」と呼ばれるようになった。

弟子たちの人間性

見ないで信じる人は幸い

見ないで信じる人は幸い

福音はヨハネ20,19-31だが、その前節(8-10)を読むと、空の墓を確認した弟子たちが家に帰ったことになっている。11節に「マリアは墓の外に立って泣いていた」とあるので、知らせてくれたマグダラのマリアを一人ボッチにしたことが分かる。「なるほどからっぽだわイ。やはり仰ったとおり復活なさったのだ」という冷静な判断力はゼロ状態。「ユダヤ人を恐れて」(19節)いたので、それどころではなかったのだ。まさにドタバタ、大慌てで家に取って返すというタダの人丸出し。そういえば、「確かにお前もあの連中の仲間だ。言葉遣いで分かる」と言われた時、「そんな人は知らない」と一蹴したペトロ。いずれもとっさのこととはいえ、師を裏切った罪からすれば、マグダラのマリアを置き去りにする無頓着さなど大したことではないかもしれない。ともあれ、そんな人間味がたまらない。

それでもシャローム

闇に住む民jは光を見た

闇に住む民jは光を見た

そうそう、いつくしみの主日の話をしようと思ったのに少し脱線。「我が身可愛さのあまり」と言えば、あんまり人のことは言えないが、とにかく、不安におののき、肩を寄せ合い、息をひそめていたであろう弟子たちへの主のご出現は衝撃的。自分を置き去りにして姿をくらました意気地なしの弟子たちへの第一声が「シャローム!」だったとは!今朝の朗読では「あなた方に平和があるように」と長ったらしいが、解説書によると「そうだったらしい」とある。つまり、「シャローム!」まるで、何事もなかったかのようにこれまでの経緯についての言及はゼロ。しかも、一週間後のトマスに対しても全く同じ。だから、復活のメッセージは、「罪の裁きではなく赦しであり、それでもなお、神がともにいてくださる」という宣言、「シャローム!」(新共同訳 新訳聖書注解Ⅰより)。

振り向いたのは君だけ

ナジミのオオバンだけが振り向いてくれた

馴染のオオバンだけが振り向いてくれた

そんなシャロームを携えて種子島youcatと主日のミサに行こうとしたが、悪天候で高速船が欠航。急遽予定変更でカテドラルでのミサをお願いしようにもこの狭い敷地内に住む司祭と顔を合わせることもなく朝になってしまった。内線で済むことなのに、「ま、いいか」。で、明けての今日は、半年ほども訪問が途切れた甥にシャロームを持参することに。なかなか退院のめどが立たないことに気が滅入っているかもしれないと思ったが明るい顔を前にゆっくりシャロームを分かち合えたのは嬉しかった。帰りしな、いつもの調整池で野鳥観察の予定だったが、かなりの水量で干潟を歩くシギ類にはお目にかかれなかった。冬逆戻りの昼下がり、早々に引き上げた。

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