2007/09/26
園長先生をした日
作成者 admin
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投稿日
2007年09月26日 20時20分
最終変更日時
2007年09月26日 20時20分
10:30。8・9月合同のお誕生会。従来と違うのは、全園児が聖堂に参集。祭壇の前に正座した6名の子ども達のためにお祈りした。六名のお母さんたちも、殆どが始めての聖堂でのお祈り。
母の祈り
- すべての父であられる神様 この子ども達を授けてくださったことを感謝いたします。この子ども達が強く正しく生きるために必要なお恵みを常に与えてください。また、私たち親としての尊い務めをふさわしく果たすことが出来ますように光と力をお与え下さい。心からお願いいたします。
未信者のお母さんたちがどんな思いでお祈りしたのか。
子ども達には
- 心にも目があり耳があること。二つだけのお友達はお化け。
- 手は何の為に神様からいただいたのか。
- 自分のことは自分でするため:「みさちゃん、そのお洋服は誰に着せてもらいましたか?」「ママに・・・」「自分でした!」年長の男の子が元気よく言ったので、例のみさちゃん「アタシも・・・」だって。「コノバアイ ジブンデシタ とイウベキダッタ」と気がついたらしい。僕の質問にまんまと引っかかったね。「おもちゃで遊んだ後は?」「自分で片付ける!」「そうです!」学習が早い。
- 「それから手は何の為に?」「???」「お手伝いをするためです。」
- 「手の一番きれいな使い方は?」「???」「右手と左手を静かに合わせます。右手は神様の心、左手は自分の心です。二つの心が一つになるようにしっかり合わせましょう。あーきれいです。」
4:00の終礼では、お誕生会の反省会までしっかり園長先生をした一日だった。
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Re:園長先生をした日
まるで目の前で話しているようです。
息子の保育園時代を思い出しました。
ブログ内容と違う突然の質問ですみませんが・・・
何度読んでもこの箇所は恐ろしい・・とコメントしていましたが、私も不勉強なのでこの箇所を読んでみてこの箇所は神を欺いたことに対する罰なのかな~?と思ったものの・・すぐに二人とも死んでしまう場面には正直いって納得できません・・。神は愛である・・と思っていますが、この話からはこれが感じられませんがこの箇所はどういう意図で書かれたものなのでしょうか?教えていただきたいのですが宜しくお願いします。
Re:園長先生をした日
目の前に人が倒れ息を引き取るさまをペトロはどんな思いで眺めたのか
ボクにも不可解極まりない箇所です。イエス様の遺志を継いだ行為だとは思えない。
これはまったくの想像に過ぎないのですが、
教会が形を成していく過程において、一種の緊張感が指導層にはあったのではないか。
特に全権を任されたペトロはかなり強い使命感を持っていたに違いない。
イエス様が一緒のときは、ボーっとしていても良かったかもしれないが、今は違う。
学問を修め、知的にも養成されたパウロと違って、無学だったペトロは単純で一途。
言ってしまえば、ペトロの未熟さというか、教会は主の意思を純粋に継承するものでなければならない。そのためには、妥協はない。そうした熱心さは時には、今の私たちから見れば目をむくような結果すら生んだ。ペトロはあの時、誰かが息絶えたと言うことより、すんでのことで教会がこの世の打算に染まるのを防いだという満足感のほうが大きかったのではないかと思う。信仰にも成熟していくのに時間がかかることを忘れてはならないと思います。
ちなみに、旧約聖書にもこの手の死の例は沢山あります。
説明にはなりませんが、僕はそのように理解しています。聖書学者は別の解説をしてくれるかもしれませんが。
返信ありがとうございます。
司教さまのご指摘によると、教会を形成していく中で、ペテロの妥協のない強い使命感
や熱心さが教会がこの世の打算やうそに染まるのを防ぐようなおこないに満足してしまったのだろう・・ということですね。そして、それはペテロの未熟さや信仰にも成熟する時間が必要なことなども考えられると言うことでしょうか?
なんとなく、この箇所の意図することが理解できたような気がします。
ですが・・ペテロは使徒として神のもとで「おびただしい奇跡と不思議を」人々の中で行っていたのですから、この二人の死にもかかわっていたわけで「このことを知った人々は皆、非常な恐れを感じた」・・とも書かれてもいます。
先に書きました掲示板のある人は、この「神の非情ともいえる行ない?」に
恐ろしさを感じた?のだと思います。この種の話は旧約聖書にも多々ありますが、やはりこれらも「神の恐ろしさ」を示しているようですが、何のために「恐ろしさ」を強調しているのでしょうか?聖書でここだけ読むと神はこわいもの・・のイメージが強いようです。