これって、すさみ?
今回の黙想会はイグナチオの霊操を学ぶもので、三日目となる今日は、その第2週目に当たるところだそうで、荒(すさ)みと慰め。
30日間もの間、沈黙のうちに祈れば、気持ちが散漫になったり、雑念妄想に襲われたりするのだと思う。そういう場合どう対処すればいいかがイグナチオの著書霊操には書かれていて、断片的にだが紹介された。
そういう場合は、落ち着いて、従来どおり、いや、むしろ、今まで以上に祈る時間を増やすことなのだという。つまり、変更の必要なしということで前進前進ということらしい。いかにも元軍人さんらしく勇ましい。それはともかく、「すさみの状態というのは、神の恵みなしには何もできないことを分かってもらうために神様が赦している状態」なのだという。だからその辛さの中にとどまり続けること。
30日間の沈黙の祈りの体験がないので分からないのだが、「変更しない、とどまり続ける、逃げ出さない」と連想ゲームみたいなことをしていると十字架のイエスにたどり着いた。十字架から逃げ出さなかったイエス。救いの始まり。復活。飛躍しすぎたかもしれないが、祈りの場合でなくても、思うようにことが運ばない状態を一種のすさみとしたら、その最たるものが十字架。
え、もう十字架?!霊操第2週目は、イエスの誕生から十字架までを祈るのだと、講話のはじめに話されたからだ。ボクのは祈りではなく、つまり霊の体操ではなく、頭の体操をしていただけだったかもしれない。
午前中の黙想のテーマとして示されたのは、「キリストの弟子職とミッション」。洗礼の恵みは癒しと派遣。癒しは罪の赦しとそのことによって神の子となった再生の喜びと平和。これはボクの自己流理解。そして、癒された者としての喜びと平和を携えて、「神の国建設への同伴者」として派遣されていく。これも洗礼の恵みなのだ。派遣=宣教=恵み。頭にに入っていなかったが、神の国建設のために神様の同伴者に任命されたのだとしたらそれは恵みだ。そのために、この期間は「もっと深くキリストを知り、もっと深く愛し、もっと深く従う恵みを祈る」ことが奨められる。
で、いつものように、講話の終わりに紹介された絵はルカ13,10-17をモチーフにした、腰の曲がった婦人が癒される場面。イエスの人間性を通して神の慈しみが現れたように、私たちの人間性を通して神の慈しみが人々に現れるのです。淡々とかたる講師のことばに少したじろいだ。この私の人間性を通して?このいい加減なボクの人間性を通して?司祭としてミサを捧げるとき、というのなら分かるのだが…。ま、赦しの秘蹟も受けたことだし、ハラをくくるしかないか。
それにしても今日はまとまりのつかない黙想だった。これって、すさみ?
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