交わりのダイナミズム
黙想会もいよいよ大詰め。マルコ福音書から聖なる三日間、過ぎ越しの神秘。いい話をたくさん聞いているという感じはするのだが、昨日と同じで自分の中ではまとまりがつかないでいた。
しかし、講話の終わりに紹介されたイエスのゲッセマネの祈りで自分なりの糸口がつかめた。苦しみのあまり思わず叫ぶように祈られたイエス。「この杯を私から取りのけてください!」(マルコ14,36)。杯が意味したものは何だったのか。
イエスが生涯をかけて伝えたのは慈悲の神、赦しの神、癒しの神、そして和解の神。ゲッセマネのイエスにとって一番の問題は「今のこの瞬間にも、この神を行きぬくことができるのか。」ボクなら、「できないかもしれない、できなかったらどうしよう。ああ…」と頭を抱えるところだが。「私が願うことではなく、御心に適うことが行われますように」とイエスに言わしめたものは何だったのか。そんな極限状態にあっても、その苦しみを甘受するだけの御父への信頼と御父への愛の証しとしての人類への愛の比類なさだった、と。受難そのものよりこの点を黙想すべし、だと。ウーム、そうだったか!
だから、話を杯に戻すと、もし飲まなかったとしたら、人々に説いた神はウソだったことにならないか。激しい二律背反の渦に巻き込まれながら自分の中でしっかりと御父を選び取ることができたところに、普遍的な救いの道が敷かれた。苦し紛れにエーイと賽を振るようなボクの祈りと本質的に違うところだ。そうはいっても、十字架上でのあの断末魔の叫びは何だったのか。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」(15,34)。そして、「イエスは大声を出して息を引き取られた」(15,37)。「それでもボクはあなたを信じますっ!」だったに違いない。
午後は使徒言行録から交わりのダイナミズムが中心。復活の主と出会った弟子たちの生活の特徴はすべてを共有した「相互の交わり」(使徒言行録2:42/4:32-34)。洗礼はキリストの死と復活の命にあづかること。私の中にキリストが生きはじめた。だから、キリストの生き方に反することをしないのがキリスト者。そこでまとめ三点。
①そんな交わりの流れを汲む教会共同体は本来交わりの共同体。分かち合いがカギ。教会の献金は貧しい人に使われているか。②異教徒が加わった(8:4以下)。異質の要素を排除しない共同体。現実は?③復活の主は使命を与えた。キリスト者は宇宙全体の救いの完成に協力者として呼ばれている認識を是非。信者の宇宙的使命!
最後はやっぱり突きつけられたね。
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