湯の町で祈る(2)
「キリストが遣わされる神の霊によってあなたが賜物を与えられているのは、創造の業の完成を助け、創造主の道へと被造物を呼び戻すためである。」だから、「あなたが見るすべてのものを愛を込めて眺めることができるよう聖霊の助けを願いましょう。」
なんとショッキングなことばであることか!ボクが頂いている賜物によって「神の創造の業を助ける!」すごいなあ!と思う反面、神様を助けるなんておこがましい!
しかし、確かに、あれも未完成、これも未完成!数え上げればきりがない。自分を筆頭に、身内の問題、司祭たちの問題、教区の問題…。どれも未完製品ばかりではないか。それらの完成のためにボクが受けた賜物が助けになる?ビックリした。むしろ壊している時のほうが多いのではないのか、と思ったからだ。
たとえば、教区にはお金がない、という問題。成す術もなく時は過ぎるばかり。そんな時、あちこちから、このことのため、あのことのため、と献金の申し出が。だから、今のところ、お金の不安はボクにとってナイ!無責任かもしれない、とは思う。未完成のもっとも現実的な姿としてのお金の問題にしても、この通りボクにかかわる誰かが穴埋めをしようと立ち上がってくれている。
逃れることのできない身内の問題にしても司祭たちの問題にしても、名案があるわけではないが、心配していない。これが、ボクを取り巻く現実の姿、と受け入れていくしかない。月並みだが、喜びも悲しみも、自分の手に余ることも、すべて神様の手の中で起こっていることだから、ボク以上に、放蕩息子の帰りを待つ父親ように(ルカ15,11-32)、神様ご自身が祈りながら待っていてくださる。
そう思うとき、ボクにできることは、これらすべてを現実に起こっていることとして、いい悪いの判断を保留して、そのままを神に捧げることしかできない。もしかして、これが、神の創造の業の完成を助けるということになる?アーダコーダと判断すれば、神の創造の業を邪魔することになるかもしれない。それは大変!
パワーポイントで示されたレンブラントの「放蕩息子帰宅」の絵画を思いながらの40分ほどの孤独の黙想の結論。なんとなく、自分に都合のいい落しどころ、という感じもするが。
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