みこころ教会堅信式
それぞれの堅信式にはそれぞれの特徴があるが、4年ぶりとなる、聖心教会のそれは、中学生が7名も受けたこと。部活に塾と忙しい彼らがよくここまで頑張ったと思う。
それは、ひとえに、主任司祭の牧者としての努力の賜物。そんな主任司祭の熱意に答えてくれた中学生たちと、側で励まし、支えた家族たち。それに、大人が、当日急病で一人欠席だったので8名。お姉さんに勧められて昨年のクリスマスに受洗した親子も。宣教は信徒と共にチームワークで、という主任司祭の持論が浸透している証拠。
話は突然飛躍するが、1952年、カプチン会の司祭たちがアメリカ管区本部の指示で奄美を引き上げ、グアムに宣教をシフトさせた時、「宣教師をもっと大量に投入していたら、奄美全島がカトリックになっていただろうに」と残念がったという。
高齢化が進み、若者が教会から姿を消したとはいえ、ミサでの奉仕など若者の動きも活発で、信仰を受け入れる柔らかい土壌はまだまだ健在。それに、受堅者を代表しての決意表明にも、シマ(方言で故郷)の人々の純粋さと熱い心を感じた。シマの教会はまだまだ多くの可能性を秘めている。
奄美宣教の秘話を簡単に紹介したい。1891年の宣教開始当時、奄美はユタ全盛時代。これではシマの発展は望めないと、鹿児島のキリスト教諸派に宣教師派遣要請の手紙を送ったのはシマを代表する有識者たち数名。時を同じくして、臼井熊八さんという奄美、浦上出身の大工さんが鹿児島県庁の大島支庁庁舎建設に派遣されることになり、主任司祭島田喜藏神父さんに挨拶に伺ったところ、「あなたは奄美で宣教しなさい」と励まされた。
鹿児島でプロテスタントからカトリックに改宗した熱心な彼は、早速、仕事仲間や町の人々にカトリックの話をしたという。人々が大変興味を示したので、主任司祭に手紙を書き、司祭の派遣を勧めた。そこで、川内で働いていたフェリエ神父さんが実情視察のため奄美に派遣され、1891年12月31日名瀬上陸が実現した。
こんな話もある。少し遅れて来島したプロテスタントの宣教師はカトリック旋風を目の当たりにし、奄美を諦め沖縄に向かったという。そのせいかどうか分からないが、沖縄にはプロテスタントの大学や高校もある。
話はそれたが、奄美には、もともと、仏教のような既成の宗教がなかったので、シマの人々にとって、初めて耳にするカトリックの教えは偏見なしにスンナリ受け入れることができたのではないかと思う。子供の頃、あちこちで集団洗礼が多発?したのもこうした背景によるものと思われる。ちなみに、わが故郷への宣教は1894年2月。家族会議を開き一族全員がカトリックになった。
シマの教会に栄光あれ!
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