もう一つの高地トレーニング
熊本県北部の町玉名市。和水(なごみ)町の山上に「真命山・諸宗教対話霊性交流センター」はある。標高300mはかなり冷える。
そんな山奥で一週間の研修会が始まった。その名も「諸宗教対話担当者養成コース」。午前午後と4つの講義を終えた夕食前の休憩時間、部屋に戻って何気なく目にした水色のコード。なんとインターネットのケーブル!一週間メールチェックもできない生活を覚悟してきただけに驚いた。
ともあれ、今回も参加者はわずか6人。スタッフ3名。いずれも日本ではもちろんバチカンでも名の通ったその道の学者ばかり。質の高い講義はさすがだ。今日最後の講義はシスターによる「原始仏教」。すべては相互のかかわりの中で生起する。死も同じ。これを縁起という。諸宗教対話を考えるとき問題となるのが次の三点。①縁起と創造②縁起と神の存在③縁起の世界で生きる人間。③については時間切れで次会質問することに。
①の話を聞いて思い出したことがある。2年前の同じ研修会で寺社訪問でのことだ。「何ですって!私たちは神様に造られた!?へー、一体どんな風に造られたんですか?」ご住職がギョロ目をさらに丸くして驚きの声を上げた。仏教には聖書の言う創造の思想はないのに驚いたものだ。
②縁起と神の存在も相容れない。縁起を起こす存在を認めないからだ。しかし、ボクは縁起という言葉は好きだ。「これも何かのご縁」という挨拶にも抵抗はない。で、日本人にはそれほど馴染んでいるということだから「神様の元での縁起」と言えば諸宗教対話もうまく行きそうな気がする。それに「み摂理」よりも日本的?
もう一つおまけが。仏教の伝播と変遷で興味深かったのが、紀元前から西洋と東洋をつなぐ海のルートがあったこと。地中海から紅海を経てパキスタン、それに南インドにいたるルートだ。「聖トマスがインドに宣教したというのは本当なんですね?」思わず場違いな質問を発した。すると「紀元前からシナゴグがインド南部にあって、ヘブライ人の共同体ができていた。聖トマスはそこに行った。」講師の断言に驚いた。というのも、これまで、インドに伝わる伝説に過ぎないと思っていたからだ。
6:30、有明海に沈む夕日を見ながらの晩課。「賛歌は鶯の鳴き声です。」司祭の導きは研修会を黙想会に変えた。冷えて鼻水が出たがここならではの祈りの体験だ。
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