エネルシャトーの一日
もう少し遅れて現れた村長さんは赤いチェックの半袖シャツ姿。まるで、西部劇に出てきそうな粋なスタイル。ネクタイ背広の教会役員とは大違い。
交流会会場となる公民館ホールは会食の準備が整っていて、ウェルカムドリンクが用意され、地元産のシャンペンが振舞われた。本命の歓迎会前にすでに交流が始まり、奄美から持参したいろいろな贈り物が手渡された。ベネディクト16世にも贈呈した例のザビエル様の御像も。みんな大スマイルでの拍手のうちに司教総代に手渡された。お返しはカテドラルに描かれたマリア様の顔のレプリカ。
11:00のミサには、各教会から駆けつけた信者たちで、かねては、月一回しか開かれない教会が、久しぶりに賑わった。中には、車で30分もかけてきた人も。22の巡回教会があり、通常は、エネルシャトーでのミサは月一回。しかも、小教区1万人の信者にもかかわらず、ミサに来るのは全部で300人だけだというから、エネルシャトーの人口が1100人なので、月一回のミサに来るのはせいぜい10人かそこらということになる。瀬留の状況と酷似しているのが、痛ましかった。
なるほど、司教総代が言っていたように、フランスがカトリック国というのはすでに過去の話。フランスにおける大人の洗礼が増えているという事実がそれを物語っている。幼児洗礼が普通のことだった”カトリック国時代”には考えられないことだった。それにしても、教区には、毎年一人の司祭が誕生するというから、召命はゼロではないとしても、何とか命脈を保っている状態だ。新しい福音宣教がとくにヨーロッパを意識したものだということがわかるような気がした。そうは言っても、ミサには小中学生らしい若者の姿にホッとした。兄弟姉妹で22の小教区を束ねる信徒代表の子供達だということが、ミサ後の会食の席上で分かった。しかも、代表が女性というのもセドメとの共通点。
会食後にブイジュ神父様の家族が眠る墓地に。ブイジュ家、と彫られた長方形の墓石は貧しい人々が葬られる墓所。しかも、隣は、精神病院で、身寄りもなく逝った人々の白い十字架が林立する、いわば、被差別部落扱い。「帰ってきてもらえないだろうか」という手紙を書いた母上がいかに貧しく、心細い生活状況だったことかが偲ばれて、胸がいたんだ。
それだけに、母上の現状をよく分かっていながら、帰ることなく、異郷の土と化した神父様の胸の内を思う時、160年もの時が一挙に現実味をおびて心にせまった。神父様が、そんな母上をおもんばかってどれだけ心を痛めたことか!それこそ、飛んで帰りたかったに違いない。それでも、全てを捧げ尽くした神父様は、まさに、宣教師の鏡。いや、瀬留教会信者の鏡としなければならない。
帰りしな、村長さんからの思いがけない伝言に湧いた。「セドメとの姉妹盟約を結いたい。」今回の巡礼の最大の実り。
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