シドニーよもう一度
クレジットカード会社から「ご利用明細」が届いた。まず合計金額にため息。毎回出費が多いなあと思いつつ明細を仔細に眺めて驚いた。
シドニーでの食事の料金があまりにも割安だったからだ。投宿したホテルの隣にあったすし屋の金額に思わず「ヘーッ!」二人で、いくつも注文し、日本酒もお変わりし、十分満足して4362円。二日後の欄には2883円。確かに品数は前回に比べて少なかったとは思うが。それにしても、日本よりよほど安い?
昨日届いたアジアフォーカス(英字週刊紙)にシンガポールの青年がWYDでの体験談を寄せていた。教皇上陸の17日が彼にとってどんな日だったかが記されていて、タイトルは「私たちはイエスに会いに来た」。いい話なので大意紹介したい。
楽しみにしていたその日は彼にとって散々な一日だったらしい。そもそも朝のカテケージスが前日に比べてつまらなく、楽しみのお昼も缶詰ものばかりで・・・。もともと内気な彼は、どうせ週末にはまた教皇に会えるからと、みんなから離れたところで独りになりこれまでのことなど振り返ってみたいと思って電車に乗って出かけた。しかし、行った先で事務局から配布されたスカーフや巡礼と典礼の手引書をなくしてしまった。夕方町に帰りお勧めのカフェを探していったら閉店。さらに、楽しみにしていた講演の場所が変更になっていて、あわてて新しい会場に着いたときはすでに一杯で入れてもらえず、踏んだりけったり。しかし、それまで気がつかなかったのだが、すぐ側では聖体礼拝やゆるしの秘蹟が行われているところだった。「どうせなら、数分でも入ってみるか」と大きなホールに入った。そっとご聖体の前にひざまずいた。すると、一日の溜まりに溜まったものがスーッと抜けていくようだった。やがて暖かい涙が頬を伝わり、全身洗われるような気持ちに包まれた。同時にみんなから離れて、あっちこっちと自分の安住を求めてせわしく動き回った一日のことが思われ、WYDに来た理由をすっかり忘れていたことに気がついたのだった。つい数日前に始めた巡礼は、「私たちはイエスに会うためにシンガポールから来ました」が合言葉だったというのに。そして、分かった。散々な一日なんかでなかったのだ。自分が神様を体験できたらいいのにと望まなかっただけだったんだと。いやもっと分かったことは、神様は私たちが苦しんでいるときも慰めてくださること、さらに私たちが苦しんでいる人を慰めるとき、私たちがその人々にとって神様をあらわしているのだと。だから7月17日は彼にとってWYD巡礼の中で最高の日となった。
ボクの元にもあちこちから「子供がWYDに行けたこととても喜んでいます」「聖霊を体験したそうです」などの感想が寄せられている。次回は20011年8月15-21の予定。スペイン・マドリッド。
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Re:シドニーよもう一度
ブログは毎日読ませていただいています。
前教皇ヨハネ・パウロ2世が来日されたのが1981年でした。私は当時大学2年生でした。教皇ミサが東京の後楽園球場であるとは聞いていたのですが,まったくお金がない大学生でしたので,東京に行くなんて考えもしませんでした。ところが,ある日,大学の指導司祭(アメリカ人)に呼ばれ,「東京の教皇ミサに行きなさい」と言われたのです。私が「神父様,そんなお金はありません。」と言うと,指導司祭は「ダイジョウブです。東京までは神学生と一緒に神学校のマイクバスに乗って行きなさい。帰りは神言会がお金を出してあげますから,新幹線で帰ってきなさい」と言われ,あの感動の教皇ミサにあずかることができたのです。余談ですが,その行きのバスには現在新潟司教である菊池さんも神学生として乗っておられたはずです。
さて,WYDですが,当時はまだそんなものはありませんでした。WYDが始まった頃,私は一応まだ参加できる年齢だったのですが,若手の教師ということで時間もお金もありませんでした。当然,参加なんかできるはずもありません。ですから,WYDに参加できた若者の話を聞くとただただうらやましく,年甲斐もなく複雑な気持ちになってしまいます。若いうちに教皇の話を直接聞き,世界の兄弟姉妹と御言葉の若い血合いをし,精霊の働きを感じてこられるのは一生の宝物になるからです。
自分がWYDに参加できなかったからではありませんが,私は仕事に慣れ,お金もある程度自由になるようになった30代の初めからヨーロッパの中心に巡礼を始めました。これは現在でも年に2回の割合で続けています。巡礼と言っても観光に毛が生えたようなものですが,それでも多くの教会をたずね,ミサに参加するのは実にすばらしい体験です。しかし,それでもやはりWYDに参加したかった…心からそう思います。
Re:シドニーよもう一度
ブログは毎日読ませていただいています。
前教皇ヨハネ・パウロ2世が来日されたのが1981年でした。私は当時大学2年生でした。教皇ミサが東京の後楽園球場であるとは聞いていたのですが,まったくお金がない大学生でしたので,東京に行くなんて考えもしませんでした。ところが,ある日,大学の指導司祭(アメリカ人)に呼ばれ,「東京の教皇ミサに行きなさい」と言われたのです。私が「神父様,そんなお金はありません。」と言うと,指導司祭は「ダイジョウブです。東京までは神学生と一緒に神学校のマイクバスに乗って行きなさい。帰りは神言会がお金を出してあげますから,新幹線で帰ってきなさい」と言われ,あの感動の教皇ミサにあずかることができたのです。余談ですが,その行きのバスには現在新潟司教である菊池さんも神学生として乗っておられたはずです。
さて,WYDですが,当時はまだそんなものはありませんでした。WYDが始まった頃,私は一応まだ参加できる年齢だったのですが,若手の教師ということで時間もお金もありませんでした。当然,参加なんかできるはずもありません。ですから,WYDに参加できた若者の話を聞くとただただうらやましく,年甲斐もなく複雑な気持ちになってしまいます。若いうちに教皇の話を直接聞き,世界の兄弟姉妹と御言葉の若い血合いをし,精霊の働きを感じてこられるのは一生の宝物になるからです。
自分がWYDに参加できなかったからではありませんが,私は仕事に慣れ,お金もある程度自由になるようになった30代の初めからヨーロッパの中心に巡礼を始めました。これは現在でも年に2回の割合で続けています。巡礼と言っても観光に毛が生えたようなものですが,それでも多くの教会をたずね,ミサに参加するのは実にすばらしい体験です。しかし,それでもやはりWYDに参加したかった…心からそう思います。
Re:シドニーよもう一度
ブログは毎日読ませていただいています。
前教皇ヨハネ・パウロ2世が来日されたのが1981年でした。私は当時大学2年生でした。教皇ミサが東京の後楽園球場であるとは聞いていたのですが,まったくお金がない大学生でしたので,東京に行くなんて考えもしませんでした。ところが,ある日,大学の指導司祭(アメリカ人)に呼ばれ,「東京の教皇ミサに行きなさい」と言われたのです。私が「神父様,そんなお金はありません。」と言うと,指導司祭は「ダイジョウブです。東京までは神学生と一緒に神学校のマイクバスに乗って行きなさい。帰りは神言会がお金を出してあげますから,新幹線で帰ってきなさい」と言われ,あの感動の教皇ミサにあずかることができたのです。余談ですが,その行きのバスには現在新潟司教である菊池さんも神学生として乗っておられたはずです。
さて,WYDですが,当時はまだそんなものはありませんでした。WYDが始まった頃,私は一応まだ参加できる年齢だったのですが,若手の教師ということで時間もお金もありませんでした。当然,参加なんかできるはずもありません。ですから,WYDに参加できた若者の話を聞くとただただうらやましく,年甲斐もなく複雑な気持ちになってしまいます。若いうちに教皇の話を直接聞き,世界の兄弟姉妹と御言葉の若い血合いをし,精霊の働きを感じてこられるのは一生の宝物になるからです。
自分がWYDに参加できなかったからではありませんが,私は仕事に慣れ,お金もある程度自由になるようになった30代の初めからヨーロッパの中心に巡礼を始めました。これは現在でも年に2回の割合で続けています。巡礼と言っても観光に毛が生えたようなものですが,それでも多くの教会をたずね,ミサに参加するのは実にすばらしい体験です。しかし,それでもやはりWYDに参加したかった…心からそう思います。
Re:シドニーよもう一度
毎日ブログを読んでくれてありがとうございます。
最近は毎日書けない日が多いのですが、たわいもない記事を読んでくれてうれしいです。
すべてには時があるので、WYDに参加できなかったのも時でなかった、つまり、貴殿には別の時が用意されていたということでしょうかね。神様の計らってくださる時はなかなか奥が深いので戸惑うことは多いのですが・・・。
それでも、充実した日々をお過ごしのようで何よりです。