スルピス賛歌
「松に山。なんと読むんですか?」「たかしです。」そんな切り出しから運転手さんとの楽しい会話が始まった。
駅での客待ちが二時間というのも珍しくない。週刊誌はすぐ読み終わる。少しカタイものをと読み始めたのがナント聖書。「聖書の言葉は心に残ります。思い煩うな・・・」「僕らの行き先は神学校。すぐ洗礼をしましょう・・・」博多駅からの30分のドライブは楽しかった。
60年の歴史に幕。21歳から29歳までの青春のすべてを燃焼した学び舎サン・スルピス大神学院。洋風のオレンジの屋根瓦。一万坪の広大な敷地。野球とテニスにバレーボール。そしてグランド一周のジョギング。汗を流した昼休み。静と動。メリハリの利いた生活リズム。
グループごとの週一回の外出は歩け歩けの半日遠行。月一回の大散歩はもっぱら登山。シスター手作りの折箱弁当一個を携え、尾根から尾根へのハードな縦走。走って下った大宰府天満宮のお楽しみはビールに梅ケ枝(うめがえ)もち。神学校では口にすることのないビールは飲みたい。名物のもちは食べたい。制限の多い神学校生活。公然と羽を伸ばせる唯一の好機。しかし、6時までの帰院は至上命令。酔う間もなくあたふたと電車に飛び乗り時間とにらめっこしながらの滑り込みセーフ。思い出は尽きない。
新たに、日本カトリック神学院福岡キャンパスとして再出発するとはいえさすがにおセンチになった。何よりもカナダからの恩師が三年前に会ったときよりも元気な姿を見せてくれたのが嬉しかった。ミサ後の式典で院長が「神学院祭だからというよりも彼に会いたくてみんな集まった」と挨拶したのはある意味正解。ボクも彼に救われた一人だ。
久しぶりにいろいろな人とおしゃべりしていたら、あっという間に時間が過ぎた。テーブルに山と盛られた山海の珍味。食べたような食べなかったような。あらゆる飲み物がそろったバー。飲んだような飲まなかったような。
「神父さん、ボクがこんなことになるなんて、夢にも思わなかったでしょ。」今は大学の学長という要職にあるかつての恩師が「・・・」。「いろいろ考えたとき、共通点があることに気がついた。それは、お御堂で祈っている姿だった。」ボクへのほめ言葉が見つからないのは当たり前だとしても、ボクをそんな風に見ていてくれた?彼のやさしさに涙が出た。30数年ぶりにして初めて彼と出会った、と思った。
パーティーの終わりが告げられた直後の応援団には度肝を抜かれた。詰襟は詰襟でもガクランならぬローマンカラーの若き司祭団。「ワレワレはー・・・」突然の口上に帰りかけた参列者は釘付け。応援の振りで始まったみんなの愛唱歌「司祭の心」。「ア、ソーレ・・・」思わず合いの手が。聖歌にア、ソーレは前代未聞。神学校は新しくなるが、司祭たちは既に新しくなっていた?
帰りの電車でアンパンをつまみに缶ビールで再度乾杯。サン・スルピスよ永遠たれ!
※Facebookユーザーはコメント欄への書き込みもできますので、ご利用ください。
【お知らせ&お願い】 サーバーの制御で最新号が表示されないことが時々あります。
最新号でないかもと思われる場合は、それでもBlog!最新号の表示をクリックしてください。
ロケーションバーのURLの末尾に/(半角のスラッシュ)を挿入後クリックすることでも同様の効果があります。
- カテゴリ
-
できごと
- 固定リンク
- ¦
- コメント (2)
- ¦
- トラックバック (0)
- トラックバック用URL:
- http://sdemo.net/pken/Blog/30b930eb30b98cdb6b4c/tbping
4年前に帰天した叔母がサン・スルピス大神学院で
30年ほど賄い婦をしておりました
(深堀さち子っていいます)
50人分、3食、来る日も来る日も
「じゃがいも」を剥いたといってました
神学院の賄い婦になると言いいだしたとき、
親族は皆、反対したらしいけど
「神様が守ってくれる」と言って仕事に就きました
もし生きてたら、この日をどう感じたでしょうか
それはそうと、私は司祭になって37年になりますから僕らも叔母さんがむいたジャガイモを食べていたのですね。あの頃は、台所は禁域で神学生の立ち入りはできなかったので、どんな人たちが働いておられたのか全く知る由もありませんでした。明日の朝、お礼のミサをお捧げしたいと思います。教えてくださってありがとうございました。