世直しとしての信仰
この一年、何かと行き来の多い立正佼成会の皆さんとのお付き合いを思うにつけ、「諸宗教対話発祥の地」の当事者として、
何よりも鹿児島の僧侶たちが結局はキリスト教排撃に走ったという歴史があることからしても、その轍を踏んではならないという思いは強い。ザビエル様には失礼になるかもしれないが、師が果たしえなかった息の長い真の諸宗教対話を実現したいとの思いがある。そういうわけで、皆さんとのお付き合いを表面的で形ばかりのもに終わらせたくない。そして諸宗教との対話を推進する情熱を残された開祖の庭野日敬(にっきょう)という方について心底知りたいと思っていた。
あるとき、教会長さんにそんな思いを少しだけ口にしたら翌日には早速三冊の本が届けられたというわけで、とにかく一番上にあったものから読むことにした。それが前回紹介した「平和への道」。とんぼ返りの東京出張はさすがにチョットくたびれたが、往復の機内で、その二冊目を読了できた。
新潟の雪深い寒村で培われたどんな逆境にも耐えることのできる強靭な精神力。それに旺盛な知識欲。徹底した平和主義と並外れた奉仕の心。かてて加えて人間味溢れる開かれた人柄はまさに猛獣をもおとなしくさせる不思議な魅力をたたえていたようで、若いころから開祖が行かれるところ誰もが幸せになったという。カトリックならすぐにでも列福調査を開始するに違いない。なによりも、不条理をも「修行」として受け取ろうとする「霊性」は十字架の主をいわば開祖と仰ぐ我らの信仰そのものではないか。「対話の糸口発見!」だ。
他にも開祖に敬服するところは多い。何よりも、法華経を文字通り生き抜く信仰の深さ。もう一つは神示(啓示)に対する忠実さ。「家族と離れよ」という啓示に対して10年もの間別居生活をしたというから驚く。新聞や他宗教からの誤解や迫害があったというが「それも修行」として相手を恨むこともなく真実のみを語り続けた結果、誤解が解け今の隆盛を築くことになった。うそ偽りのないまっすぐな信念の人。また将来を見据える眼はまさに預言者。
ひるがえって、我が信仰の生ぬるさを思わずにはいられない。神の広大無辺な愛の心に甘えすぎてはいないか。もっともそれこそが救いなだのが、開祖の自伝を読む限りまやかしはない。頭の信仰でなく世直しとしての生活で証する信仰。教会が学ぶべきところだ!?
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