中間の来臨
“主の死を思い、復活を称えよう、主が来られるまで。”「イエス様はすでに来られたのに、どうして、『主が来られるまで』と言うんですか。」
初めて一人で教会を任された頃、巡回ミサに行ったらいつも夕食に招いてくれた夫婦がいた。素朴な人柄の主人を思い出すと、彼の質問も一緒に思い出す。これは、もちろん、主の再臨を指しているのだが、彼には「主が来られるまで」だけが印象に残っていたのだと思う。
昨日の待降節第一水曜日教会の祈り第二朗読、聖ベルナルド修道院長の説教でまた思い出すことになった。
「わたしたちは主の来臨があることを知っています。…主は第一の来臨では肉と弱さのうちに、中間の来臨では霊と力を持って、そして第三の来臨では栄光と威光を持って来られるのです。中間の来臨は、第一の来臨から最後の来臨までの間を結ぶ道のようなものです。キリストは第一の来臨の時、私たちの贖(あがな)いとなられたのですが、最後の来臨の時は、わたしたちのいのちとして現れることになります。そして中間の来臨の時には、私たちの憩い、慰めとなられるのです」(毎日の読書第一巻16頁)。
改めて、なるほどと思う。「私たちの憩いと慰め。」それも来臨だったとは!考えてみるとそうなのだが…。
ちなみに、聖ベルナルドは1091年フランスブルゴーニュ生まれ1153年8月20日62歳で帰天。聖ベネディクトの流れをくむ厳しいシトー会で活躍した。生前から伝記が書かれたという。記念日は8月20日。厳律シトー会つまり有名な北海道のトラピストとは違う。
ともあれ、あの当時、この記事を読んでいたら、あのご主人にもっと気の利いたことを話してあげることができたかもしれないのに。
明日までフリーを満喫できる。「公園の晩秋」制作。二日続いたランの後の今日は久しぶりに速歩5キロ。
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