盛大に460回命日祭
第460回目を迎えたザビエル様の命日祭ミサが昨日午後6:30、カテドラルで約100名の参列者とともに捧げられた。初めての企画だったが、
中には、わざわざ長崎からの参列者も。おそらく教区のフェイスブックで知ったに違いない。参列者の多さもさることながら、ミサ後の持ち寄りパーティーはこれまでにない豪勢さに驚いた。テーブルには手作りの料理やケーキが所狭しと並べられ、主任司祭のベトナム料理も。今回主催をザビエル教会にしたのは正解だった。「私たちのザビエル様」という意識がいかに定着しているかを実感。提供した5本のワインがたちまち空になったのも嬉しい誤算。
記念日にあたり、ザビエル様の最後の様子を振り返ってみたい。1552年12月3日、我らがザビエル様は中国宣教を志しながら上川(サンチャン)島で47歳7カ月の生涯を終えた。鹿児島上陸から3年3か月後のことだった。
当時の上川島は中国南部の小島で、ポルトガル人と広州の商人たちとの密貿易の拠点。香港から約160キロ南下してマカオ、マカオからさらに約200キロ南下して上川島という位置。向かいの中国本土まではわずか約20キロ。冬になると密貿易商人たちで賑わっていた島から人が消え無人島のようになる。しかも、証拠を残さないためにすべて焼き払ったという。
ザビエル様はなんとかこの商人たちの手引きを得て中国本土に上陸したかったが協力する者はいなかった。それでも、最後の望みを託して盟友ペレイラの到来を待ち続けたが、ついに再会を果たせないまま、11月13日に記した最後となる手紙を乗せた船を見送ることになった。残ったのはこの島に彼を運んだサンタ・クルス号と一隻のジャンクだけだったという。間もなく風邪をこじらせて肺病を併発。12月3日土曜日午前2:00帰天。(以上宮崎正勝著「ザビエルの海」263頁―270頁)。
帰天前の聖師の胸の内を垣間見させるような手紙の一節を引用したい。「ガスパル神父よ、…他の人と同じように、私が死んだものと考え、あなたに命令したことの実行を忘れてしまうようなことがあってはなりません。いままで、もっと生きていたいと思っていたその時はすでに過ぎ去ってしまいましたけれども、もしも神のみ旨であるなら、私は死なないでしょう。私がこのようにあなたに書くのは、あなたが過去にそうであったようにまた再び自分自身の意思に従うものとならないようにするためです。あなたが正しくすべきことからどれほど遠ざかっているかを、神はご存知です」(書簡137の8「聖フランシスコ・ザビエル全書簡4-261-262頁」)
息を引き取る直前まで弟子を気遣う姿はまさに聖師。
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