加世田教会黙想会
7:30の迎えはじょせいながらも男勝りの運転で、45分で加世田教会着。コーヒーをお代りできるほどの余裕。9:00講話開始。約40名?園児に小学生、中学生に若者。最年長は92歳。
まずは、一番長い例え話、放蕩息子(ルカ15章)。イエス様の真意は?もちろん神様の紹介。息子が家出したあとの父親の心境は?「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて憐れに思い、走り寄って抱き、接吻した(20節)。ドラ息子とはいえ、いかに愛していたことか。それだけに、一日も早い帰りを首を長くして待っていたに違いない。音信不通の息子を案じ、心休まることの無かった父親。一日の終わりに深い溜息と共に口をついて出るの「無事でいてくれさえすればいいのだが・・・」だったに違いない。「無事ていてくれ・・・」は父親の祈りそのもの。祈りながら待つ父親。これが、イエス様が紹介したかった神様のイメージ。
そうすると、私たちがどんな罪を犯そうとも、私たちは神様の裁きの対象でも、軽蔑の対象でもなく、単なる同情の対象でさえもない。心配をかければかけるほど、一日も早く本心に立ち返って欲しいと祈らないではおれないほどの愛の対象。そんな神様の本気さに気づくことが回心。
二つ目の話は、イエス様の”なれかし”。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたいの願いではなく、御心のままに行なってください」(ルカ22.42)。これが、最初の”なれかし”。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(ルカ24.46)。これが二つ目の”なれかし”。子供の頃から、マリア様から何度も聞かされたに違いない”なれかし”。
十字架の死に至るまで貫かれた”なれかし”こそ、わたしたちの毎日の生活を信者らしくするキーワード。最初の”なれかし”は聖体拝領のときの「アーメン!」。もう一つは、マザーテレサに倣って二つ目の聖体拝領をする時。大小さまざまな十字架と思える現実に「アーメン!」。
ミサの説教はエフェソ2.10から神様の手作りをめぐって。
ミサ後の弁当と懇談は自己紹介もなされて、顔と名前が一致して、身近さが増した。進化論の話やお祈りが頻繁に変わることへの苦言も。各小教区にはそれぞれに持ち味が違うので訪問は楽しい。1977年青年会主催の聖地巡礼に参加した元青年が隣にいて、当時の8ミリが健在だと聞いて嬉しかった。いつか映写会ができるといいのだが。
3:00前帰館。
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