司祭大会(1)
講師は典礼学者のザベリオ会士。「熊本の玉名の山にある…」と言うだけですぐに「 ああ、あの真命山の」という答えが返って来るぐらいに有名な神父さん。
三回行ったことがある。一度は見学に。後の二回は諸宗教交流の研修会。そうなのだ、真命山で通っているが、それは彼がつけた呼び名で、正式には、真命山諸宗教対話センターというれっきとした研修所。
それはともかく、ご本人は50年前の第二バチカン公会議の典礼に関する部門を担当したバチカンが認める典礼学者。ということで、今回のテーマも「神秘体験としての典礼」。いろいろな前置きがあったが、典礼刷新を評価しながらも、その負の部分をも具体的に指摘された。
例えばとして、①朗読の時奉仕者は、誰に、いつ、あるいはどこに礼をするのかが問題となり、何のために礼をするのかは問題にしない。この何のために、の解説はなかったが、司教ミサの福音朗読の前に、朗読する司祭や助祭が「祝福をお願いします」と言って軽く頭を下げると、司教は「主の福音をふさわしく告げることができるように身も心も清めてくださいますように。父と子と聖霊のみ名によって」と祈って祝福を与える。このことから考えると、誰に礼をするかといえば、主司式司祭にではないかと思う。もっとも、ミサの中心は祭壇なので、まず祭壇に。
②全員参加で薄れた神秘体験。みんな参加する。従来のミサは司祭が牧者として羊を神様の方に連れて行くというイメージで捧げられていた。会衆はミサそのものとは関係のないロザリオを唱えたりしていたが、公会議後は、積極的参加が進められ、そのための養成もなされた。しかし、典礼はキリストが捧げる。みんなが捧げるのではない。キリストが主体であることを少し忘れたのではないか。神秘体験で無いと典礼ではない。
③共通祭司職;司祭としての典礼でのユニークな役割を忘れていないか。司祭の祭司職は信徒の祭司職と本質的に違う。司祭のユニークさが明確に意識されていないのではないか。これが、司祭を志す若者が出ない理由ではないのか?
正直なそして直裁的な指摘にシーン。聞き応えのある講話だった。
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