司祭大会(4)
日ごとに繰り返される私たちの聖変化。これこそ、ミサを祝った信者の一大事。些細なことを通して働かれる神。小さなしるしが大きな体験に導く。
マリア様然り。赤ちゃんとして生まれたイエス様然り。弟子たち然り。薄っぺらで小さなご聖体。数え上げるときりがない。そして、この小さな私も、洗礼によって神の子とされ、聖体によって救いの出来事に預からせていただいている。確かに。
小ささに心奪われて偉大な神の働きを見ようとしない。それが問題。だから、変われない。“神に結ばれた私たちは愛の人に変えられる“とパウロは力強く訴える。
ガラテア5,22「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。24キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。」新しく変えられたしるしはこれ。だから、「25わたしたちは、霊の導きに従ってまた前進しましょう」とパウロは勧める。
では、愛とは?神様がそうであったように、私たちも神に習って相手のために生きようとすること。教会の基礎はこれ。教会は神様の愛を表すしるし。だから秘蹟。だから神の前で愛を誓う結婚式は教会で挙げるのが相応しい。で、自分の喜びを第一にする「好き」とは本質的に違う。
「相手のために」という愛の本質は、教会の労働観の基礎概念でもある。つまり、働くのは本来、他の人々の喜びに資するため。だから、例えば、バスの運転手さんには「私たちのためにありがとう。」で、司祭は司祭職を相手のために果たしているか?耳の痛い話だ。
では、教会は何のためにあるのか。教会に引っ張り込むのではなく、出て行くように。世の中と同化するためではなく、みんなを神の元に連れて行くため。モーセは我が家を出て囚われの身となっている同胞のもとに出かけ、その結果、解放された民は神との過越の契約を結ぶことになった。
新約の民であるキリスト者は、この過越の契約を更新する者。それが私たちキリスト者の神秘体験。で、教会は、すべての人々をこの過ぎ越しの契約へと招く使命を受けている。これが教会の本質。
明日、韓国の二人か神学校へ。今夜はみんなの好きな回転寿司で壮行会。前回は70皿、今回は100皿を超すかも。ア~。*難しい内容が続いているので気分転換にどうぞ。 一緒に踊りませんか?
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