司祭大会三日目
司祭大会3日目は講師不在。講師の所要で昨日帰京。で、午前中の分かち合いは、講義を聞いての感想。評価する声が大半だったが、
かなり今日的というか、少なくともボクには興味深い「宣教(ミッション)から福音化(インルチュレーション)へ」は敢て議論を避けた感じ。結論が出る問題ではないから、当たり前と言えば、当たり前だが・・・。しかし、取り上げて、一緒に考えてみたい課題ではある。
というのも、講義の中で引用された「受けた信仰を自分の文化の中で説明する」は、実は、2008年、タイで開催されたアジア宣教大会のテーマが「イエスの物語をアジアの文化の中で語る」だったからだ。このテーマを聞いたとき、思わず膝をたたいたものだ。「あなたがたは、自分の信仰を自分のことばで語るようにしなさい」というのが、司祭になったボクらに送られたことばだったからだ。「自分が受けた信仰を自分の文化の中で」ということは、「自分の信仰を自分のことばで」というのと同義語ではないか。それは、またアジア宣教大会のテーマと重なる。
ボクにとってキーワードは”自分のことばで”。借り物のことばではなく、教理の専門用語でもなく、どんなにつたなくても、奄美で育った、奄美訛りの言葉でと言うことになる。たとえば、奄美にはキョウデということばがある。兄弟、ということだが、何かの集まりで、同郷だと分かったとき、嬉しさのあまり、「ハグィー キョデ ジャガナー!」と声をあげることがある。血のつながりはなくても、深い親しみを表したいときに使われる。
それは、おそらく、イエス様がしばしば使われた意味での兄弟に近い響きを持つと思われる。兄弟に腹を立てるもの(マタイ5,22)とか、「行って兄弟と仲直りをし」(マタイ5,24)など数え上げたらきりがないが、こうしたことが、ボクが育った文化であり、それはさらに、ボクの育った家庭という独特の文化もある。次男坊としての文化?もありだと思う。要するに、そうした、ボクをはぐくんださまざまな要素が総動員されて生み出されるボク独特の響きを持った言葉というのがあるわけで、そうした、自分の匂いのすることばでみことばが語られているかという議論には興味があるワケ。これは分かち合いにはふさわしい展開ではないので遠慮した。
午後は、1600年代仙台で教会を建てたドミニコ会宣教師たちが建て教会跡ををめぐる巡礼。福者レオ七上右門記念聖堂ともいうべき川内教会で信徒や修道女たちとミサ。後お茶会。アットホームな教会の様子が嬉しかった。
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