司祭大会最終日
5:44。「起きるにはまだ早い」と油断したのがいけなかった。次回の目覚めは6:49。「温泉の時間はないが、7:30には十分だ…」と思いつつ時間割を見て仰天した
“朝の祈りとミサ(音声は昨日のもの)7:00。”まさに猫の顔洗い。司祭大会最終日の朝のドタバタ。ともあれ、9:30からのコンベンツス(司祭定例集会)の議題は二つ。年間行事予定の確認と年頭教書を巡って。
とくに、「月一回、主日のミサ後にお昼ごろまで聖体を顕示して祈ってほしい」という提案には、早速始めた小教区もあったが、大半は公会議前に逆戻りかという戸惑いも感じられた。聖体をいただいたのだから、自分自身が聖櫃になっているわけで、わざわざ聖体顕示をするというのはいかがなものか。そういえばそうだ。さらに、「行きましょう…」と派遣の祝福も済ましているのに、信者を引き留めるのはおかしい。確かにそう思う。ミサが最も大事。それに代わるものはない。その通り。
いずれも分かるのだが、拝領後の沈黙の時間を活かす方法もあるとは思うが、聖体を受けた者にふさわしい心で一週間を生きるために、主と語るには短すぎないか。過ぎた一週間を振り返り、迎える一週間に対する心を整えるために、顕示された聖体の前で1時間かそこら、沈黙のうちに祈る時間を信者たちに担保するのは、神学の問題というより司牧の問題ではないかと思う。しかも、信仰の文化にまで高めるためには、一部の人だけでなく、可能な限り多くの人に開かれていないといけない。そうなると、一番手っ取り早いのは主日のミサ直後というのがボクの結論。
つまり、世の荒波の中で心身ともに消耗しているであろう人々に、教会当局が、せめて月一回そんなひと時を提供するのは、ロビーでのお茶会とともに推奨されることではないかと思うのだが。ミサが終わって、一斉に帰ってしまうのは、共同体としていかがなものかというのでお茶が始まったように、ミサが終わっても、主との交わりの余韻にもう少しだけ浸っていたい。ボクにとって、それが聖体顕示の心なのだが…。
ま、しばらく様子を見ることにしよう。
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Re:司祭大会最終日
御聖体顕示、とてもいいアイデアだと思います。
仕事をしているとそうしたちょっとの時間がどんなにか重要のものとなるか。
そしていつも同じ場所というのがまたよくて、どんなに色々悩んでいても、元の所に戻れるような感覚を味わえると思います。
もちろん御聖櫃もありますが、やはり見える形で対話が出来るのはイメージもつかみやすくて、素晴らしいと思います。
Re:司祭大会最終日