司祭職ゴールドジュビリー
ボクもあんなふうに生きることができたらいいなあ、と思う先輩司祭の50回目の司祭叙階記念日をお祝いした。ゲストの司祭が2人に終身助祭も盛装で祭壇に立ち荘厳なミサとなった。聖堂から溢れる大勢の参列者。
いつもニコニコ穏やか、周りを安心させる人柄は多くの人をひきつける。この5年間、毎年のように大人の受洗者がいて幼稚園も賑やかになったという。つい、同じ教会で8年いた頃の自分と比較してしまう。毎年のように洗礼があったという記憶はなく、幼稚園はといえば、身を入れれば入れるほど、園児は減るばかり。的外れなことをしていたのかもしれない。
話を戻すと、確かに、先生の証言の通り「園長先生は人と人との関わりを大切にされる」司祭だという評価は高い。だから自然に人が集まる。まるで、夏の日照りに思わず身を寄せたくなる涼しげな木陰を作る、茂った木のようだ。そして、集まった人がみんなハッピーになる。なんとも羨ましい。それはミサの共同祈願からもよく分かった。通常は、一人だけ祝われる人のために祈り、後はパンフレットの例文を読み上げるものだが、代表の4人が捧げた祈願は、全て主任司祭のためのものだった。
また、全員で教会学校を手伝っているという幼稚園の先生たちが、今日のミサにも参加し、パーティーでは特別に素敵な歌を準備して場を盛り上げ、信者たちと一緒になってパーティーの片付けに精出す姿を見るにつけ、みんなを一つにするカリスマを頂いた司祭、との思いを深くした。
神学生時代、指導司祭に何度も“止める”と宣言した自分が司祭になれたのは、指導司祭のお陰だと感謝しながら、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ15.16)という聖句を引用しながら「それぞれの働き方があると思う」と結ばれた挨拶は心に沁みた。
「10年後のダイヤモンドのお祝いもわたしたちで祝いたいので、どこにも転勤させないで下さい」という直訴にたちまち起った万雷の拍手が全てを語っている、と思った。
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