対話の入り口で
「あなたは菩薩です。」お坊さんが司祭に言う。「あなたもそうですね。」司祭も答える。そんなやり取りから続けられた二人の旅は今も続く。
菩薩とは、修行を積み、そういう身分にあるにもかかわらず、「すべての人が救われるまでは涅槃(本当の安らぎ)に入らない」と決心した人のことだという。すべての人が神の国の住人となるまで人々とともに生き続ける信者の姿に重なる。ミサの中での司祭の言葉。
午前中の勉強は原始仏教とパウロ6世における対話。30歳のころ悟りを開いたいう仏陀はやはり宗教的天才?悟りとは「光に照らされた者」という意味。日本語の言葉の意味からすると「核心を取り出す」。蛇だと思ってびっくりして飛び上がった。よく見ると縄だった。恐怖心の結果だ。このように、錯誤による迷い。つまり無知ゆえに迷うというのは本当に違いない。
パウロ6世の回勅「エクレジアム・スアム」は対話の大憲章と言われるのだという。「対話の起源は神の意向そのもののうちに見出される」。「神はその独り子をお与えになったほどに世を愛された」(ヨハネ3,16)とあるように、神が身をかがめて人類と救いの対話を始められた。ここに教皇は、諸宗教対話の原点を見ようとする。「教会は対話そのものになるべき」「教会はメッセージそのものになるべき」「「対話しようとする相手より先にはじめなくてはならない」パウロ6世の対話に対する妥協を許さない確信に圧倒された。
午後からのお寺訪問も諸宗教たいの実践。訪問先は八女の近くにある天台宗の清水寺。庭園は室町時代にできたもので国宝だとか。40代の和尚さんはイケメンの自信家。「天台は釈迦の教えの一部ではなくそのもの。縁起の法はその中心。何一つ孤立したものはなく、すべて関係性の中にある。・・・」
午前中聞いた原始仏教のおさらいのようだったが、「縁起を司るものがあるんですか」という質問は的外れのようだった。「関係性は考えて分かるものではなく体験するもの。悟った人は鐘が鳴るのを聞いて言う;私が鳴った!」・・・「私の命の独自性についてはどうお考えですか?」「いい質問です。一即一切 一切即一」私つまり全体 全体つまり私。こうなると禅の世界だ。「私の命は神から望まれて・・・」という思想は期待すべくもなかったが、諸宗教対話はまずお互いに学びあうことと知るべし、か。
帰りの掛け流しの温泉は三日ぶりの湯浴みにふさわしいものだった。今日はひな祭りというので、夕食後のデザートは桜餅とおはぎ。三つも食べた。
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