対話は楽し
第2バチカン公会議(1962-65)後の神学校はまさに変革のときだった。神学部にあがったのが3年後の68年。
公文書が日本語に翻訳され、日本語の教科書はなく毎日プリントが配布されての授業。変わりつつある日本の教会、と言うよりも世界に冠たるカトリックが刷新を始めた。若いボクらにはどこか誇らしくワクワクするような希望の中にあった。
今日の午前中のシスターの講話はそんな30数年前を髣髴とさせるものだった。「福音をまだ受けなかった人々もいろいろな意味で神の民へ秩序付けられている」(教会憲章16)と他の宗教の人々にも救いの可能性を開いた教会の懐の深さと大きさに心を震わせていた。高揚した気持ちで叙階を受け、赴任した教会では毎日のように家庭訪問をして回ったこともみがえって懐かしかった。
神学生時代大好きだったクローニンの「天国の鍵」の一場面もよみがえり、気分はほとんどシンカセイ(神科生)。それほど新鮮に聞くことができた。しかし、当時、そうした教会のメッセージが諸宗教対話を促すことになるなどとは考えてもみないことだった。
原始仏教が大乗仏教となっていったくだりの解説とそれに続く「みんなの時間」(と勝手に呼んでいるが質問タイム)はこれまた時間オーバーするほど。
午後からの熊本市内にある立正佼成会教会での会長さんの話は昨日のお坊さんを思わせるような立て板に水のパワフル説法。明快さは昨日に勝っていた。やはり縁起の話。
「30代さかのぼるとこの私の先祖は一億人。そんな縁の中で私が生まれた。」分かりやすい。「これとあれ、あれとこれと言う具合にすべて縁。それは真理。さまざまな縁からなるこうした宇宙の真理は見えないがそれを見えるようにしたのが釈迦であってその説明が法華経。だから、悟りを開いた釈迦はいわばテレビの本体。テレビに送られてくる電波は見ることができないがテレビがそれを見えるようにしてくれる。」あまりの単純明快さに思わず笑ってしまった。
「佼成の仏は立像。左手は下で開き、これを与願印(よがんいん)といい、何でも与えるからいらっしゃいと招く。右手は上で開いていてこれを施無畏印(せむいいん)といい、恐れることはないからいらっしゃいと招く。立っているのは真理を説くためにいつでも出かけていくという意味。私も休みなどありません。布教布教で走り回っています。」誇らしさと熱意がよく伝わった。迎える人々のにこやかさと合掌の挨拶がいい。お客の「仏性」に対する礼なのだという。
今日は朝からスイートづけ。おもてなしの大きなショートケーキはさすがに止めとけばよかった。ともあれ、諸宗教対話は楽し。
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