対話ドライブは今日も
いろいろな宗教があるが、結局行くところは同じだから「どの宗教でもよいという」宗教的相対主義。
一般受けする考え方だが、今回の対話の実習を通してつくづく思う。やっぱり違うと。話をした人が、「皆さんのイエスさんも同じだと思います」とまとめると頷いてしまうがそれは挨拶。聞く側も学ぶことはあるとしても、相手も啓発されることが対話と学んだ。
今日の訪問先のお寺は伊万里にある浄土真宗のお寺。二時間のドライブ。「まず、お勤めをしましょうか」40代後半かと思われるご住職は真命山の皆さんとは懇意の中だとか。気さくに本堂に案内されて読経が始まった。内容は生きとし生けるものすべてを救うという阿弥陀の誓いだとう。時々鳴らす梵鐘は阿弥陀のそんな本願が世界の隅々にまで響き渡るようにという願いが込められている。
こうして、本物の読経を聞いたのは種子島時代以来二度目。30年ほど前のことになろうか。時々訪問していたおばあさんに請われて車に乗せてお寺参りをしたときだ。あの時はお年のお坊さんがラジカセ持参で現れたのが印象に残っている。音楽を聞いた後で説法も聞いた。
今日は、安置されているご本尊の間近で説明を受けた。これまでの立て板に水の説法と違い極めて控えめ。しかもとつとつと緊張気味。浄土真宗の教えは修行を否定し、すべての人を救うという阿弥陀の本願を信じるなら南無阿弥陀仏と唱えるだけで救われるというもの。この本願の見える姿が仏像。開かれた両手は光と命。蓮は極楽浄土に咲く花。立ち上る香は浄土の香り。
浄土にたどり着いたものは菩薩となり、人々の救いのためにまた人間界に戻ってくる。これが大乗の心。それが人間の姿をとるか動物の姿をとるかはどうでもよい。これが永遠に繰り返され終わることはない。麗しいようでもあるが永遠というとてつもないはるかなる世界を見ているようでなんとも取り付く島のない落ち着きのなさを感じてしまった。それにしても「罪が深いほど救われた喜びも大きい。渋柿の渋が強ければ強いほど甘みも大きいのと同じ」お坊さんのたとえは分かりやすい。
活動的なお坊さんのようで、本堂の中にグランドピアノが置いてあるのには驚いた。ミュージシャンのポスターが張られているところから本堂でのコンサートも開かれるらしい。畳の部屋でお茶をいただきながら質問は途切れることはなかった。
7:00に帰ってすぐに夕食。今日はやっとお湯でのシャワーができた。
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