無原罪の聖母
無原罪の御宿りの祝日。1854年12月8日ピオ9世によって教義として公認された。その4年後の1858年2月11日、聖母がベルナデッタにご出現。
「アレが教会を建てるように言われた」と告げると、司祭は、アレではわからない、その女性の名前を聞いてくるように命じたという。「私は無原罪の宿りです」との返事を得て持ち帰ると司祭は驚き、初めて信じたという。無原罪の御宿り。四年もたっている教義とはいえ、マリア様についてのこの呼び名や教義については司祭や一部の知識人だけが知るところで、無学なベルナデッタには知る由もないことだったからだ。
2008年の夏に訪れたタイのワット神父さんの巡回教会ルルドの聖母が蘇った。ルルドのイメージとはずいぶん違うものだったが、貧しいベルナデッタと農村の貧しい自分たちが重なったのかもしれない。
「神は万物の創造の父であり、マリアは万物の再興の母です。神は万物を造った方を御生みになり、マリは万物を救った方を産みました。神はそのかたなくしては何も存在しない方を御生みになったのですが、マリアはその方なくしては、何も良いものになりえないお方を産みました」(毎日の読書第一巻142頁)。まだ教義として確立される前、12世紀の神学者聖アンセルムスの言葉。
1545年のトリエント公会議でも認められなかった教義とはいえ、「無原罪の聖母」への信仰は、民間では早くから知られていたという。ともあれ、神の母を最高の誉を持って遇したいという教会の素朴な思いが込められた教え。被昇天のお祝いとともに、聖書に直接の根拠を持たないだけに、教会の心が一番よくあらわれている祝日と言っていいかもしれない。
今日はまた第二次世界大戦勃発の日でもある。それだけではない、今日は、わが故郷の瀬留教会の献堂記念日でもあること、また、今夜、信徒有志で教会のない宇検村(焼酎レントの産地)に宣教に出かける旨のメールが入った。成功を祈りたい。
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Re:無原罪の聖母
主任司祭の宣教熱に、宇検村に知り合いのある信徒が動かされて、仲介役となり実現しました。宇検村湯湾にある「元気の出る館」という立派なホールで、主任司祭、信徒、そして信徒ではない強力な協力者のメンバーで。クリスマスキャロルをしました。玄関には、司祭と信徒の手作りの立派な馬小屋も設置。子供大人を合わせて70名ほどの方が集まって、ともにクリスマスをお祝いいたしました。ステージで皆さんと歌いながら、ここに集ってくださった一人一人に神様の豊かなお恵みがありますようにと、祈りを込めて歌いました。主任司祭は、開催の準備で前日まで、心配だったことが、当日にはすべて解決されてびっくりしたとのことです。皆様のお祈りのおかげでしょうか?そして、宣教の種が確実にまかれたことに喜んでおられました。信仰年を過ごしている私も、このような体験をさせていただいて感謝です。まかれた種が神様の恵みにより成長しますようにお祈りをつづけていきたいと思います。瀬留教会献堂104年目。無原罪の聖母の取り次ぎを願いながら。感謝と祈りのうちに。瀬留小教区信徒。
Re:無原罪の聖母
「無原罪の聖母」の聖書的根拠
しかし、聖書のいくつかの箇所の記述を系統的に読み解いていくことによって、「無原罪の御宿り」の教義の聖書的な根拠を追究することは、かなりの程度まで可能です。
(以下の聖書の日本語訳は、日本聖書協会の新共同訳『聖書』によります)
創世記の3章から4章までを、字句通りに読み進んでいくと、どうにも腑に落ちないことがあります。
「蛇」は、「ねたみ」(知恵の書2章24節)のためにエバを欺き、エバとアダムの二人に害を与えましたが、その後エバの長男のカインもまた、ねたみのために弟アベルを欺いて野原に連れ出し、殺害しました。
カインの犯した過ちは、エバのそれとは比較にならないほど、深刻で重大なものでした。
しかし、主なる神は創世記3章15節で、「蛇」に向かって、
「おまえと女、おまえの子孫と女の子孫との間に わたしは敵意を置く」
と、約束されたはずです。
それなのにエバの子孫は、その最初の一人であるカインからして兄弟殺し・隣人殺しという悪事に手を染め、「敵意」どころか、「蛇」の行ないに倣う者、大罪を犯す者となってしまいました。
創世記の3章(エバの物語)と4章(カインの物語)を読み比べると、
「お前は男を求め、彼はお前を支配する」
(創世記3章16節)
「罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない」
(創世記4章7節)
の両者は、ともに「求める」「支配する」という動詞が用いられた主なる神の御言葉ですが、よく似た言い回しで、両者が対応関係にあることがわかります。
「求める」「支配する」に用いられているヘブライ語の動詞も一致することから、3章から4章は一連の物語であり3章は4章の伏線となっていることが、暗示されています。
カインについてヨハネの手紙一は、「カインのようになってはなりません」(3章12節)と教え、続けて「彼は悪い者に属して」と書いています。
知恵の書10章3節には、「かの悪人」すなわちカインは、「怒りのうちに」「憤って兄弟を殺し、滅び去った」とあります。
またユダの手紙11節では、「滅び」に至る道を「カインの道」と表現しています。
知恵の書2章24節には、「悪魔の仲間に属する者が死を味わうのである」とあります。
ところで、ヨハネの黙示録の12章では「女」と「竜」が登場して決定的に対立しますが、この「竜」とは、創世記に登場する「蛇」(「年を経た蛇」)であると示唆され、「悪魔」「サタン」「全人類を惑わす者」のことだと説明されています。
カインは、ヨハネの手紙一のいうところの「悪い者」、すなわち「悪魔」「サタン」に「属」する存在になってしまったのです。
このカインの大罪そしてその末路とは、創世記3章15節における主なる神の「おまえと女、おまえの子孫と女の子孫との間に わたしは敵意を置く」という約束とは、明らかに矛盾しています。
創世記3章15節における主なる神の約束にもかかわらず、しかもカインはその約束の後に誕生した最初の一人だったにもかかわらず、「敵意」どころか、「蛇」=「悪魔」「サタン」「全人類を惑わす者」とともに、滅びに至る道を自分から選択し、突き進んでしまいました。
これほどの大きな矛盾はありません。
主なる神の約束は、いったいどうなってしまったのでしょうか?
エバの子孫の最初の一人であるカインは、主なる神の約束とは正反対の結果となる存在になってしまったのです。
間違えるはずのない「主なる神」が、間違えてしまったのでしょうか??
......ところで、ここまでの議論のいったいどこに、矛盾の原因となる解釈の間違いがあるのでしょうか???
やはり創世記3章15節の「女」をエバと考えるから、矛盾が生じるのです。
「おまえと女、おまえの子孫と女の子孫との間に わたしは敵意を置く」というくだりの、この「女」とは、エバを指すのではなく、いずれ現われるであろう別の女性のことを暗示していると、考えるべきです。
主なる神はこの部分で、
"おまえ(「蛇」)とは絶対に相容れることのない「女」、すなわち、おまえ(「蛇」)の影響を全く受けることのない一人の女性を将来的にこの世界に出現させる"
と、「蛇」に対して宣言なさっておられるのです。
とはいえ創世記3章の時点では、いうまでもなく人類の中で存在する女性は、まだエバただ一人だけでした。だから、15節の「女」とは当然エバのことだろうと、読者は最初は誰しも思い込んでしまいますが、そこに落とし穴があったのです。
3章15節の「女」がエバであるなどとは、実は創世記は全く言ってはいません。
創世記は「女」の名前を挙げてはいません。
読者が文章の流れから、勝手にエバのことだと思い込んでしまうというだけです。
しかし、この「女」をエバと考えてしまうと、エバの子孫のまさに最初の一人であるカインの兄弟殺し・隣人殺しの大罪という、絶対に避けることができない大きな矛盾に突き当たってしまいます。
カインは「悪い者に属して」「滅び去った」のです。
繰り返しますが、これは創世記3章15節の主なる神の御言葉とは明らかに矛盾します。
やはり、創世記3章15節の「女」とはエバのことではない、と考えるべきなのです。
先に触れたヨハネの黙示録12章では、「女」と「竜」が登場して決定的に対立しますが、この「竜」とは、創世記に登場する「蛇」(「年を経た蛇」)であると示唆され、「悪魔」「サタン」「全人類を惑わす者」のことだと説明されています(9節)。
「女」は、「男の子を産んだ」とありますが、
「この子は、鉄の杖ですべての国民を治めることになっていた」
と、続けられています(3節)。
この「男の子」とは当然、主イエス・キリストのことでしょう。
また「神の掟を守り、イエスの掟を守りとおしている者たち」のことを、「その子孫の残りの者たち」とも呼んでいます(17節)。
「その」というのは、「『女』の」ということです。
このヨハネの黙示録12章が創世記3章15節をより詳しく説明するものだということは、「竜」とは「年を経た蛇」「悪魔」「サタン」であると書いていることからも明らかです。
ヨハネの黙示録12章17節には、
「竜は女に対して激しく怒り、その子孫の残りの者たち......と戦おうとして出て行った」
と、記されています。
この一節と、創世記3章15節の、
「おまえと女、おまえの子孫と女の子孫との間に わたしは敵意を置く」
とを比較検討すれば、
「女」=「イエスの母マリア」
「女の子孫」=「主イエス・キリスト」+「神の掟を守り、イエスの掟を守りとおしている者たち」
であると、おのずと明らかになります。
ところでヨハネの黙示録12章の「女」に関して、これは教会のことであるとする解釈が、カトリック教会においても存在します。
確かに、教会はサタンと決定的に対立すべきです。また、主イエス・キリストに対する教会の信仰にあずかることによって、すべての人々は神の子となることができます(ヨハネによる福音書1章12節、ガラテヤの信徒への手紙4章5節、エフェソの信徒への手紙1章5節)。
しかし、主イエス・キリストは、教会から生まれたのではありません。それは絶対にありえません。
イエスを生んだのは、いうまでもなく母マリアであって、教会ではありえません。
よって厳密に言えば、ヨハネの黙示録12章の「女」は「鉄の杖ですべての国民を治める」主イエス・キリストを産んだ母マリア、聖母以外にはありえません。
ヨハネの黙示録12章の「女」が聖母であるならば、同じように創世記3章15節の「女」についても、やはり主イエス・キリストの母マリア、聖母以外にはありえない、ということになります。
なぜなら前述した通り、ヨハネの黙示録12章とは創世記3章15節をより詳しく説明している内容のものだからです。
さて、カトリック以外の人々から、「カトリックが創世記3章15節の『女』をイエスの母マリアにあてはめて論じようとするのはおかしい」と批判されることが、キリスト教の歴史上、たびたびありました。
しかし、創世記の原罪の物語を3章までだけでなく4章までを一連のものとして読み進めていけば、3章15節の主なる神の御言葉の中の「女」がエバには決してあてはまらないことが、おのずと明らかになります。
「初子」カインという大罪人の存在が、「女」がエバではないということを証明しているのです。
それでは、繰り返すようですが、創世記3章15節の「女」がマリアに該当するということは、いったい何によって証明されるのでしょうか?
いうまでもなく、それは「初子」イエスの存在によってです。
カインが人類にもたらされた兄弟殺し・隣人殺しの大罪を、イエスはアベルと同じように「隣人」に殺されるという運命を御自分も辿ることによって、あがなおうとされたのです。
兄弟殺し・隣人殺しという大罪から人類が救われるためには、それは論理的な必然であり、不可欠でした。
「最も重要な掟」(マタイによる福音書22章36節)のうち、第一の掟である神なる主への愛は、人類史上、エバの不従順によって最初に損なわれ、そして第二の掟は、カインが兄弟にして隣人でもあるアベルを「怒り」に任せて殺害することによって、決定的に踏みにじられました。
「蛇」の誘惑に負けてしまったエバの主なる神に対する不従順(創世記3章6節)は、ややもすると取るに足らないものであるかのようにも感じられますが、しかし、このエバの不従順は、「罪」(創世記4章7節)の誘惑に負けてしまったカインの主に対する不従順と、それに続く兄弟殺し・隣人殺しの大罪、という極めて深刻な結果をもたらす契機となりました。
「誘惑」と「罪」と「死」との相関については、ヤコブの手紙1章13節以下で説明されています。
エバの不従順がなければ、アダムとエバは楽園を追い出されることもなく、カインやアベルなどその子孫たち人類の運命も大きく変わっていたかもしれません。
それに対して、
「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」
(ルカによる福音書1章38節)
というマリアの神に対する絶対的な従順は、ややもすると取るに足らないものであるかのようにも感じられますが、しかし、このマリアの従順は、
「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」
「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」
(ルカによる福音書22章42節)
「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」
(ルカによる福音書23章46節)
という主イエス・キリストの御父に対する絶対的な従順と、それに続く十字架上の犠牲そして世界の救いの成就、という空前絶後の結果(ヘブライ人への手紙9章26節)をもたらす契機となりました。
創世記では、エバの不従順が、より重大な意味を持つカインの不従順の伏線となっていたのに対し、ルカによる福音書では、マリアの従順が、より重大な意味を持つイエスの従順の伏線になっているのです。
エバからカインという母子が行なったこととは、ちょうど逆方向のこと、まさしく正反対のことを、マリアからイエスという母子が行なったことによって、世界の救いが成就(ヨハネによる福音書19章28節)されたのです。
まさに、マリアは人類に救いをもたらすための、新しいエバ、もう一人のエバなのです。
何度も繰り返しますが、創世記3章15節において主なる神は、
"おまえ(「蛇」)とは絶対に相容れることのない「女」、すなわち、おまえ(「蛇」)の影響を全く受けることのない一人の女性を将来的にこの世界に出現させる"
と、「蛇」に対して宣言なさっておられるのです。
「蛇」とは絶対に相容れることのない、「蛇」の影響を全く受けてはいない、というのは、すなわちアダムやエバがそうであったように原罪のない状態で、この世界に生まれさせる、ということです。
さて、アダムもエバも、母親から生まれたわけではありませんでした。
けれども、モーセの律法が支配的だった旧約時代のイスラエルにおいては、
「混血の人は主の会衆に加わることはできない」
(申命記23章3節)
という律法の規定からも明らかな通り、ヘブライ人としての出自に疑問が持たれている人が「主の会衆」に加わるのは困難でした。
また、ネヘミヤ記13章27節には、
「わたしたちの神に逆らって異民族の女と結婚するという、この大きな罪悪」
という表現があります。
よって時代的な制約として、「新しいエバ」となるその女性は、必然的にヘブライ人の両親から誕生しなければなりませんでした。
「新しいエバ」には、一人の母親、一人のヘブライ人の母親がいたのです。
ここが、アダムやエバとの決定的な違いです。
無原罪の状態で母親の胎内に宿る、とは、主イエス・キリストを産んだ「女」である、聖母マリアに特典として与えられた、主なる神の恩寵だったのです。
ルカによる福音書1章28節の、
「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる」
という天使の言葉は、そのことをも暗示しているように思われます。
訂正
◯「カインによって人類にもたらされた兄弟殺し・隣人殺しの大罪」
以上のように訂正します。
Re:無原罪の聖母
郡山司教さまのブログファンの一人として、意見をさせてください。
Josephologyさんのコメントは長すぎます。コメントは数行、長くても10行以内が通常ではないでしょうか。司教さまの記事より長いコメントはいただけません。
もし、論陣を張りたいのなら、ご自分のブログで書いてそちらを案内すべきかと思います。
郡山司教さま、勝手な書き込みお許しください。
Josephologyさん、どうかご理解願います。
Re:無原罪の聖母
お心遣い感謝します。
Re:無原罪の聖母