神が刻む
ダマスコ途上での出来事。あれはパウロだけの体験ではなかった。周りにも光を見たものがいたが目が見えなくなったのはパウロだけ(使徒言行録9章他)。
同じ体験をしたからといってみんなが同じことを体験するのではないということ。パウロの場合、かれは神がその出来事に何を刻まれたのか少しづつ理解し、深めていった。出エジプトの体験の場合も同じ。単に思い起こすのではなく、そこで何が刻まれているのかを深めていった。それはついに時間を越えて我がこととして祝われるまでに深化した。「私たちもこのような恵みを受けた。」これが私たちの過ぎ越しの体験。パウロもまさに同じことを体験した。
司祭の場合だと、叙階式という私の出来事の中に神が何を刻まれたのか。叙階式後の歩みが問われている。神が刻まれる。単に叙階式の出来事だけでなく、日々出会うさまざまな出来事を同じ視点で受け取っていくことがパウロに学ぶというっことになる。
神が特別に自分にだけ明かされる秘密のメッセージを下さるということ。自分と神様だけが通じる秘密の言葉が生まれるということ。これは僕の結論。次第に僕の世界で講話が進展していくよう。それは、昨日見た絵のような美しい船だまりにつながれたボートを解いて、鼻歌を鳴らしながらスイーと沖に漕ぎ出して行きたくなるような嬉しい感じ。
三時からグループに分かれての分かち合い。僕はフリーらしい。どのグループに入ったものか。ともあれ、そろそろ行くとするか。
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