神様は犯人ではない
神様は全能?もちろん。では、どうしてあのシリアの非人道的弾圧、いや、毎日のように起こる凶悪犯罪を阻止できないのか。一年前の東日本大震災を全能のパワーでストップできなかったのか。幸せな家庭が突然地獄の阿鼻叫喚と化し、いまだに人々の心に深い傷跡を残している現実に責任を感じないのか。
全能の神を巡る問題は、古くて新しい。「神の全能を語ることは今日なお意味があるか?」刺激的なタイトルの論文を読んだ。一体どんな風に展開していくのか、ハラハラしながら、また難解な論考にウーンと唸りながらめげずに読了した。最終的には、トマス・アクイナスが登場してホッとした。神学校で学んだ路線に落ち着いたからだ。トマスの結論は、神は、たとえ自然災害であろうと私たちが望まない悪の行為者ではなく、犯人ではないというもの。
神は世界を創造された時、人間には自由を、宇宙や動植物などこの世界にはそれなりの自律的力を賦与された。それゆえに、人間が自由を乱用して悪をなすとき、直接手出しをして制御されないという意味で、神様はご自分の力を制約されることになる。プレートが沈み込んだりする地球そのものの持つ力の前に、たとえそれが震災を引き起こすことになったとしても、被造物に対するご自分の愛に矛盾するようなことをも甘んじて受けざるを得ない。
ここに創造の神秘があるわけで、それは、わが子の悲惨な現実に涙しながらも、この子は自分の力できっと立ち直ると信じて、じっと耐えている父親の姿そのものだ。被造物の再生力にどこまでも信頼する創造主としての愛がそこにある。その究極の姿こそイエスの受難。復活の朝に満面の笑みを浮かべ「よし!」と力強く頷かれたお方こそ、御子とともに耐え忍ばれた父なる神ご自身。制約を受けていた全能の力が一気に解き放たれ主の命の輝きに全世界が照らされた。しかし、あれから2000年。全能の神の究極のよし!はまだだ。以上神学ダイジェスト2012夏号54頁に啓発されて自分なりに書いてみた。
ここまで書いたら、あの高名なプロテスタントの神学者故北森嘉蔵先生の「神の痛みの神学」が蘇った。全能の神を信じます、という信仰宣言の“全能”の概念がドラえもんのポケットと同じものでしかなかったとしたら、親の心子知らずということになる。全能の神が痛みの神とつながった。そんな切ない全能の神を信じます!少し、高尚すぎたかな。
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