神秘の国の魅力
今日は書くことが一杯ある。先ず最初に訪ねたシスティナ礼拝堂。ミケランジェロの天井画
はともかくとして、祭壇前の壁画の裸体。筋肉ムキムキのたくましい復活の主の裸体をはじめ、数々のまるで、ギリシャ彫刻のような裸体のオンパレードはいかがなものか。そんな感想を持っていると、実際、そんな批判をした枢機卿がいたという、ガイドさんの説明にさもありナン。ところが、その枢機卿は、地獄に堕ちた人間のひとりとして描かれている。しかも、耳は聞く耳を持たないロバの耳、胴体を巻いた蛇に股間を咬ませるというミケランジェロの復讐。
それはともかく、当時の教皇がそんな裸体の作品を祭壇の正面に描かせたということに疑問を感じると同時に、芸術家の感性をそのまま受け入れた懐の深さを思わないでもない。きらびやかな衣服に身を包んだルネッサンス様式を否定したミケランジェロの彫刻家としてのメッセージは何だったのか。神様からいただいた肉体の美しさは隠すべきものではない。あらわにして何が悪い。そんな気持ちは分からないでもないが、身を覆いたくなる恥じらいはあのアダムとエワの話にもあるとおり、いわば人間の本性。そこそこ、中庸がいい。
あの祭壇正面の筋肉ムキムキが実は、フランス革命の源流だったというのは根拠のない妄想には違いない。1789(ヒナヤク)と覚えたように、あの革命を境に教会の凋落の一歩が始まったのは確か。肉体礼賛と非神話化。話は難しくなるが、簡潔に言えば、現実の願望を満たす目に見える価値が、目に見えない価値(信仰)よりも重んじられるようになった。それが、フランスから始まってヨーロッパ全土を席巻した。そして、あっという間に、教会が空っぽになった。その始まりが、システィナ礼拝堂祭壇正面に描かれたあのミケランジェロの裸体像の数々だった。そんな感想をもったほどにショッキングな見学だった。ボクもあの枢機卿のようにロバの耳にされるのだろうか。
ともあれ、女性の裸体がなかったという点に関してはホッとしたのだが、いずれにしても、裸体を直視することに関しては、それが男性であったとしても抵抗があることに変わりはない。まして、教皇選出の神聖な行為の場においてをや。ちなみに、ギリシャ正教会は像を置かない。ギリシャ彫刻の裸体像を人間礼賛の象徴として拒否したからだ。97年の夏に訪れたアテネの町はひどいものだった。町行く女性の露出度といい街中の売店の週刊誌といい、正視するに耐えないものばかりだった。それに、投宿したホテルが四方を売春宿に囲まれていたのには驚いた。ギリシャ彫刻の結末を見る思いだった。
松ぼっくり庭園の松ぼっくりが1世紀の作品であること、統合の意味があるとの説明に感動。バチカンといい、ローマの町といい奥の深さは常識では測れそうにない。
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