種子島半日黙想会
待降節第1主日の今日は師走の初日。種子島教会半日黙想。9:00から1時間の話のテーマは「調和への旅」。創世記1章2章をもとに、信者として生活するとき、カギとなる三つの調和。人と神、人と人、人と自然。
2節に「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」とあるように、私達の現実は様々な混沌に覆われているが、そんな混沌を覆っているのは神の霊。「天と地は混沌とした水状のもので覆われた形のないもの。水の上の神の霊=神の創造力が働いていて、今まさに秩序と命をもたらそうとしている」(カトリック聖書新註解書エンデルレ書店)。
紀元前7世紀の混沌とした時代の中で、世の混沌のそもそもの始まりは神との調和を壊したところにあるという著者の洞察は深い。しかし、その壊れた調和の回復のために働いてくださるのもまた神ご自身だという神秘をも指し示しているかのようだ。
未解決の問題、突然の病、こうした出口の見えない様々な現実を覆う神の霊。そのことを知っている信者は、もはや愚痴をこぼしてため息をつくだけのただの人をやってはいけない。まさに何かをなさんとしておられる神の息吹が注がれるのを今か今かと待つ信者にこそなるべき。これが待降節。そして、混沌は始まり、と言える信者になることこそが求められている。そうすることで、神との調和がなんとか保たれることになるのではないか。
2章25節「人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。」ありのままの自分を認めて欲しい、ありのままの自分を受け入れて欲しい。当時の人であろうが、現代人であろうが、人であれば共通に抱く憧れにも似た強い願いだ。強がる必要もなく、変に自分を卑下する必要もなく自然体で関われる間柄は、お互いに、ありのままを受け入れ合うことによって築かれる。まさに、裸の付き合い?
2章19節「…人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。」生き物を人が完全に支配下に置いている状態を表すのだという。こうした生き物との共存という調和。小鳥や動物たちがアシジのフランシスコの説教を聞いたというエピソードを思わせる。
こうした3つの調和が、3章からは次々と壊されていく。そして、イエス様において完全に回復されるという、いわゆる、救いの歴史の始り。中1を含む6人の子供達がいたので放蕩息子ゴンタとお父さんの話も(ルカ19章)。
引き続き赦しの秘跡とミサ。5時帰館。
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