純心大学入学式
いわゆる挨拶は下手だとつくづく思う。ミサの説教の域を出ていないように思うからだ。要するに、説教の延長。今日の純心大学の入学式、来賓あいさつで痛感。
学長シスターはかなりのボリュームをきちんと書いて、創立者のエピソードを交えながらマリア様に倣うことを柱とする建学の理念を説かれた。市長さん自らの挨拶も自治体の長として川内をいかに愛しておられるかが伝わるようなお話。後援会長さんはキリスト教の精神が「自分と同じように周りの人のことを先に考える」ことであるとまとめられた。さすがだ。
皆さんはいずれもきちんと清書されたものを手にされているのに、ボクの場合は、いつものことながら、あっち行きこっち行きしながらの低空飛行で頼りない。なら、きちんと書けばいいのだが、それができない。
「私はこの大学の直接の運営に携わってはいないのですが、同じカトリックの、しかも当局側の者として…」に始まって、「カトリック学校が皆さんにどんなことをしたいのか」、創世記一章の講釈から始めることに。「はじめに神は天と地を創造された。地は混とんであって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」大好きなところだ。
この混沌から、光、天と地、そしてついに人が誕生した一連の創造の記述。これは、混沌から調和、つまり人と人との調和、人と自然との調和、そして人と神との調和のとれた世界の創造。これこそ私たちのあこがれ。いや、私たちと共有したい神自身の夢。しかし、アダムとエワの失楽園により失われた調和。破たんした神様の夢の回復には神ご自身が立ち上がられた。キリストを頂点として壊れた調和が回復されていくというお話が黙示録に至る全聖書のメッセージ。
私たちの願いは、人と人、人と自然の調和の回復のために貢献できる人材を世に送り出すことです。そのためには、神との調和ある学究生活こそが求められる。しかし、神との調和は、人間の努力だけで実現するものではない。両手を合わせて初めて見えてくる世界。左手は自分の心、右手は、聖書では神の力の象徴なので、神の心。左手だけの学生生活でなく、右手とともになされて初めて、皆さんの勉強は確かなものになる。それがカトリック大学に学ぶ皆さんの独自性。そんな4年間であるよう祈ります。
ね、挨拶らしくないでしょ!ともあれ、入学式行脚も一服。来週からは会議に幼稚園。あ~。
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