純心女子大学卒業式
「大学までお願いします。」ややあって「純心女子大学のことですか?」タクシー運転手の思いがけない質問に、
一瞬「他にも大学があるのか?」と逆に聞きたくなったほど、少しだけ戸惑った。なるほど、人はかねて使い慣れている呼び方でないと、一つしかなくても、正確な呼び名で確かめたくなるのかもしれない。わかるような気がした。千円でお釣り50円。しかし、「今日はお祝いなので」と辞退したら「ありがとうございます!」急にトーンが高くなったのが印象的だった。
一年ぶりの大学は卒業生たちの大正ロマン風の振袖姿で華やいでいた。本命の卒業証書授与式。2学部4学科中、さすがに子供学科の返事が一番元気がよかった。なかでも、体育会系のあの甲高い返事には会場から失笑が漏れて楽しかった。少林寺拳法部もあるそうなのでもしかしたら部員だったのかもしれない。優雅な振袖姿とのミスマッチがおかしかった。
中学校の卒業式でもそうだったが、挨拶に立つ人は全員懐から挨拶状を取り出し、厳粛な雰囲気で役目を果たしていたが、ボクには今回もそれが出来なかった。会場に着くまでも、まだまとまっていなかったのだが、壇上に案内されて会場を見渡すと心臓をデザイン化した純心独特のあのバッジの大型が八個も天井に近い壁に左右四つづつあることに気がついた。これだ!と膝を叩いた。
「私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えているのです」(1コリント1,23)というパウロの言葉に始まり、不条理の死を甘受した十字架上のイエス。死の直前、断末魔の苦しみの中で槍を向ける人々の許しを請うイエス。そして不条理の槍を受けた胸。そして三日後の復活。どんな不条理であろうと、辛い出来事であろうと新しい始まりだというのが十字架からのメッセージ。「戦争、飢饉、飢え、どんな悲惨な出来事であろうとカサブタに過ぎない」(テイヤール・ド・シャルダン)。カサブタの下ではもう新しい皮膚が始まっているということ。バッジはそんな十字架の神秘のシンボル。そしてそんな十字架の神秘を若い人達に伝えたいとの思いに駆られた人がこの学園の創立者シスター江角。あのバッジを卒業証書と共にいつまでも大事にして欲しい。
伝わったか怪しいが、控え室に帰ると口の中がカラカラ。何杯もお茶を飲んだ。弁当のお昼を済まし、快晴の下、どこから見ても絵になるような佇まいの学園の芝生の中の敷石伝いにタクシーへ。ホームに降りるとすぐ電車が来た。2時30頃帰館。さすがに気疲れを感じた。
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