諸宗教ネット対話②
「懺悔なしには宗教というものは成り立たない」(新釈法華三部経16頁)。カトリック的に言えば、「回心なくして信仰なし」ということか。
小我を否定し、心を無私の状態にしない限り「仏性は輝きだしてこない。」明快でいい。「懺悔することでその人に内在する仏性が顔にも生活態度にも現れる。」仏性が輝きだす。いい言葉だ。
私たちは神に似せて造られたものだから私たちには仏性ならぬ神性(しんしょう?)がある。信仰するというのはこの神性が輝きだすこと。そうなると、家庭でも職場でも「ご馳走を前にして長い箸でご馳走を取ってはニコニコしながら向かいの人と交互に差し出しあっている」天国が実現するに違いない。そのためには、無理に自分の口にご馳走を運ぼうとする小我を捨てる努力をする必要がある。そのことが信仰生活ということになる。しかし現実には神様の恵みにおんぶに抱っこ。カトリック信者はよい自分になるための必死さがイマイチという感じがするのだが・・・。
ところで、懺悔は梵語で「見せること」という意味だという。つまり、「自分の全てをさらけ出して見せること」で「自分の罪を悔い、許しを請うこと」(同上19頁)までも含む言葉だという。誰に見せるかというと先ず同じ信仰を持つ人に。といっても、特別にそのための時間をとるのではない。日常の会話の中で自分の間違いや誤りを素直に口にして許しを願う。同門の人とは懺悔し合う雰囲気ができているのだという。信仰即生活。生活そのものが修行の場。「信仰と生活の一致」を徹底しているところがすばらしい。
もう一つは神仏に自分をさらけ出す。これは見えない方が相手だから「一点の曇りもないまごころをもってなされなければならない」(同上20頁)。赦しの秘蹟の究明に当たるところだが、これも軽く済ましてしまいがち。ともあれ啓発されることは多い。
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さて、この回に限らず司教様は仏教に対して親しみやエンパシーを率直に表明されていますが、その影響か私も本屋さんで「怒らないこと2」という新書に惹かれて前書きを読みましたら仏教の教えを基本にしたものでした。作者はアムボムレット・スマナサーラという方です。又、前書きに「心の科学である仏教」という表現がありましたので、少しも差しさわりを感じずに購入する事ができました。
何よりもまずは、この本を読んで「怒らなく」なる事ができたら、そしてそれは聖書を読む時、お説教を聴くときなどイエス様の事をや信仰を考えている時の自分がこの本によってより具体的になっていく事が出来ればと思っています。
因みに、今まで仏教に偏見や嫌悪感は持っていません。むしろ、日本人としての親しささや哲学的興味、古寺には尊厳などを感じていましたが、身近な教えとして手に取った本をそのまま買う事ができたのは、郡山司教様のブログを読んだから、と思います。