過ぎ越しへの序章
聖金曜日昼の祈りの賛歌(私訳)
イエスは人気のない谷間の道を歩まれた
一人で歩まなければならなかった
あー、他に誰も彼に代わってくれる者はいなかった
一人で歩まなければならなかった
私たちも人気のない谷間の道を歩まなければならない
一人で歩まなければならない
あー、他に誰も私たちに代わってくれる者はいない
一人で歩まなければならない
あなたは進み行き、試練に直面しなければならない
一人で直面しなければならない
あー、他に誰もあなたに代わってくれる者はいない
一人で直面しなければならない
これほど十字架の孤独をうたった賛歌を他に知らない。賛歌と呼べるのか、とさえ思う。
十字架上での壮絶な主の死を目の当たりにして姿を消した弟子たち。一人とり残された十字架上のイエス。行きずりの身でありながら主の十字架を肩代わりしたシレネのシモン。三年もの間寝食を共にした恩人であり師である主の、血に染まった十字架に触れるどころかみる勇気さえなかった弟子たち。中でもペトロの苦悩は深かった。
身を潜めながら主を置き去りにした不甲斐なさにいくら胸を打ったとしても、頭をかきむしり、天を仰いで慟哭したとしても、あの悲しげな主のまなざしが脳裏から離れることはない。すべては後の祭り。あー・・・!どこにぶつけようもないこの自己嫌悪。
あのゲッセマネの園でユダの謀略を知って、思わず敵に立ち向かうかの如くに剣を抜き、復讐の鬼となったペトロを穏やかに制した主の手のぬくもり。ユダをも愛した主の心の深い痛みを知ったペトロの眼前に現れたのは、ふてぶてしく倣がんなユダではなく、路頭に迷う子犬のように怯えたユダの顔だった。やはり、一人で逝ったユダへの不憫さが募り、再び頭を抱え慟哭するペトロ。ペトロの過ぎ越しが始まった。
聖金曜日。一人一人が孤独の中でそれぞれの境遇を生き抜かなければならない現実があるとして、それがいかに悲劇的であろうと、新たな始まりに違いないと予感できるために主の孤独を徹底して味わう日。そう思えたとき、昼の祈りの賛歌にボクもサンカできた。
さすがに今日はランもなく静かに過ごす。数十年前腕に抱いたノンちゃんがパパになった。早速、おめでとう、の書き込み。
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