黙想本番
今朝は衝撃的な朗読に遭遇。読書課第二朗読はバジリオ司教の聖霊論。「・・・聖霊を受けると人は
将来起こることを予知し、隠された緒神秘を理解し、分かち与えられるもろもろの賜物を受け、天の国籍を与えられて天使たちとともに舞うようになり、終わりのない喜びを受け、神の中にとどまり、神に似たものとなる。」ここまではいい。なんとなく浮き浮きしてきてむしろ楽しい。「さらに、神そのものになるのである」には思わず「そこまで言うか!」もっとも、彼の説というよりは2ペトロ1.4参照とあった。「・・・神の本姓にあずからせていただくようになるためです。」神の本姓にあすかるとは「神そのものになる」こと、なのか?!
ともあれ、一体バジリオ司教とはいつごろのどういうお方なのか急に興味がわいた。早速インターねとで調べると、2007年7月4日教皇の一般謁見で聖バジリオについての解説がなされたとあった。それによると「聖バジリオは4世紀の偉大な司教です。東方教会も西方教会も聖バジリオをたたえます。それは彼の生活の聖性、優れた教え、そして、思弁的な能力と実践的な能力の調和のとれた総合のゆえです。」(中央協議会ホームページより)50歳にも満たない若さで帰天。
今回の黙想のキーワードがまさに調和。今朝の講話で印象に残った言葉。「起き抜けに十字架のしるしをゆっくりする」これは僕の起き抜けの祈りに通じるので、思わず一人でソウダ!「平凡な司祭であってはいけなない」と断言されたことにも、どういうことかと聞かれても困るがなんとなく違和感なしに同意。黙想が司祭の命とばかりにかなり強調。「黙想で何を悟り何を決心するか?新しい何かを加える」とかなりチャレンジャブル。「永遠の大司祭と交信できる瞬間が至福」にはニューエイジの響きがするとしても文句なしに同感。「そんな黙想のあとに信者と出会える」と僕も思う。
「司祭は基本的に悩んではいけない」そこまで断言する司祭に始めて出会ったと思う。志布志のあの修羅場でも悩んだという自覚はなかった。むしろキリストとのまさに「交信」に明け暮れた。だからこれもソウダ!「一度選んだキリストは私たちに責任を持っておられる」このことを何度思いながら神学生時代を生き抜いたことか!「若い司祭の皆さん、皆さんは私以上に沢山の誘惑があると思います。それでも落ち着いてキリストとの交流を深めていけば大丈夫です。そんな場合こそ恵みのときなのです。」「平凡そうな毎日の中で黙想を取り入れてキリストと深く交わるときを持ってほしい。」思わず胸が熱くなった。さまざまな苦しみや戸惑いの中から紡ぎだされた力ある言葉の数々。若い司祭たちへの心遣といいホント優しい。
お昼からは主にミサに対する思いの深さが語られこれも印象深いものだった。とくに、「私は後悔しています。信者が少ないときに元気が出なかった。」しかし「そんなときでも、ゆっくりとみ言葉を語る」ことが今ならできる。淡々と語る現場からの声には気負いがなく、かといって妥協するでもなく物静かな中にも直裁。ほかの司祭たちも啓発されたに違いない。
お昼はホテル近くでソバ。その後ウォーキング。丸尾渓谷の最深部に分け入り1時間半。しかし、後半はハンカチ頭にぬれねずみ。歩きながらの黙想もミズニナガサレタ。
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