司祭大会での森司教講話を巡っての分かち合い第2弾

創世記1章の神

フエ王朝宮殿跡

フエ王朝宮殿跡

創世記1章は祭司伝承と言われるもので、紀元前6世紀頃の作品といわれる。つまり、神殿で働く祭司たちの中で語り継がれてきたものなので、文章が短く、明確。混沌から秩序が生み出されていく様子が簡明に記されていて、命令調が続く。で、「1章の神様は上から目線」(森司教)というのがおかしかった。

創世記2章

人が呼ぶとすべて生き物の名となった

人が呼ぶとすべて生き物の名となった

1章の文体は、いわゆる紋切り型に終始しているのに対して、2章の文体は全く違う。ヤーウェ伝承と言われるもので一番古く、紀元前950年頃のものとされている。神様を描くのに、たとえば、「風の吹く頃、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた」(3.8)のように擬人法を使い、叙情的描写を特徴とする。2章に記されている創造物語は、まさに物語風に描かれている。

1章との違い

生き物が水の中に群がれ。第5の日

生き物が水の中に群がれ。第5の日

1章との一番の違いは、神様が、エワを造ってアダムのところに連れてこられたとき、アダムが「これこそ私の骨の骨、私の肉の肉」と歓喜したことに見られる。つまり、1章では、できたものをご覧になって「良くできた」と神様一人だけが喜ばれて、造られたものからの反応は皆無。2章の神様は、だから、「人間を喜ばせるために創造された」(森司教)。人間を上からご覧になっているどこか怖い裁きの神様のイメージ(第2バチカン公会議前)ではなく、「人が喜ぶのを見たい神様」というのが2章の神様のイメージ。いいね!

フランシスコ教皇の神様

和気あいあいが何より

和気あいあいが何より

以下は個人的な結論だが、この流れをくむのがイエス様。放蕩息子の帰りを待つ父親のたとえ話に如実に表れている。イエスさまが紹介された神様は、裁かない神様。教皇が信じているのはこの神様のハズ。どんな人をも裁きのめで見ることなく、寄り添って行こうとする姿からうかがえる。今回の日本訪問では、教会の外にいる人々にも大きな感銘をもたらしたと思う。まずは教会内にいる信者たちが教皇に倣ってお互いに寄り添い、和気あいあい丸く収まると良いのだが。

 

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☆神に仕える身でありながら、カミガミ(紙々)の要らない世界を標榜する人間の一人として、電子メディアに自分の思いを綴ることは大きな喜びです☆本を書かない代わりにここでいろんなことを書いてみたい。

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