ソンタクの話
「パン屋」が「和菓子屋」に、「アスレチックの公園」が「和楽器店」に書き換えられてはじめて道徳教育の教科書が検定を通過したという。文科省によれば「教科書全体で指導要領にある『我が国や郷土の文化と生活に親しみ、愛着をもつ』という点が足りないため」。(夕方配信の朝日新聞デジタル版より。)それを言うなら、和菓子屋よりも駄菓子屋の方が子供たちにはなじみやすいのではないか。どこにでもあるパン屋さんこそ子供たちにとっては「大きくなったらパン屋さんになりたい」と憧れる存在だったりするほど親しみなじんでいるのではないのか。和楽器店と言っても何を売っているのか子供たちにはピンとこないのでは。たとえば尺八。見たこともない楽器に対して説明したぐらいで親しみや愛着を持つことができるとは思えない。ある解説者によると、「文科省が書き換えさせたのではなく、教科書会社が忖度(そんたく)して自ら書き換えた」のだという(同上)。ソンタクとは他人の気持ちや考えを推し量ることだが、別の言葉でいえば、要するに気の使い過ぎ。
友好国とは?
こんな状況を見たり聞いたりするにつけ、日本人は物事を言葉によって明確にすることが苦手な民族に違いないとつくづく思う。そうではなく、ソンタクしながら、物事の成り行きを不明瞭にしたまま先に進むのが得意。だから、日本がやった慰安婦制度を風化させないために少女像を各地に設置して、過去の屈辱を記憶に残そうとするのを日本政府は認めようとしない。すでに話し合いで済んだことにしたいと思っている。しかし、今こそ、被害に会った人々やその同胞たちの気持ちをソンタクして、つらい過去の過ちを自らも背負い、痛みを分かち合うとするのが友好というものではないのか。
そこが一番知りたいのに
今回の8億円の値引き事件に関してもいまだに明確にしようとしない。書類を焼却した理由も明確にできない。「トカゲのしっぽ切りでことを済まそうとしてはいけない」という本人からの警告にも耳をかそうとしない。真実はどこにあるのかマスコミも追及する風でもない。「そこを一番知りたい」と思っている国民の気持ちを誰がソンタクしてくれるのか。お隣の国では連日国民や政治家たちが物事を明確にしようと大声を上げているのとは対照的だ。友人夫婦と出かけた一泊二日の人吉花見紀行を書こうと思ったのだが。
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