西部劇とエリヤと

エリヤが逃げたのはこんな山の麓?チガウトオモウ。突然だが、荒野の七人という西部劇のファンは多いと思うが、何十年ぶりかに観た。観たと言っても、昼食後の1時間ほどだから半分ぐらいかな。西部の悪代官見たいなのがいて、定期的に村を荒らし、収穫した農作物はもちろん動物までも強奪していく悪党たちに業を煮やした村の代表がどうしたものかと長老に伺った。「戦うがいい。」「銃もないのにどうして戦うんですか?」そんなやりとりから始まって、町にやってきた代表3人が腕利きの7人を見つけ、銃も手に入れて戦いに備える、というもの。観たのはそこまで。

まったく脈絡はないのだが今朝のミサの第一朗読でのエリヤとサレプタのやもめとのやりとりはドラマチックだ。一杯の水を乞うたついでに、パンまでも願った相手が文字通りの赤貧洗うがごとき状況の哀れなやもめだったにもかかわらず、「…まず、それで私のために小さいパン菓子を作って私に持ってきなさい。…」(列王上17.13)。結果は、「壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくならなかった」(同上16節)。

まったく思いがけない時にミサ依頼の封筒を頂く時がある。そんなとき決まって口にするのが「壺の粉は尽きることなく、瓶の油はなくならない」(同上14節)。そういって押し戴くのだ。そうして今まで生き延びてきている事実の持つ意義は、司祭にとって大きい。「だから、安心して人々にパンを配る仕事を続けなさい」とエリヤから背中を押されている感じもするのだ。

あ、そうだ、映画の話だった。銃もない村人に、戦いを促す長老と、最後の粉と油で自分と子どもの荒野の七人とはかなり違う。ためにパンを焼いて食べたら死ぬのを待つばかりのやもめにパンを焼いてもってくるように促すエリヤ。映画の結末は知らなくても想像がつく。

無から始まった村を守る大仕事は見事達成され、壺の粉はもちろん田畑の実りも尽きることなく、もはや強奪されることもなくなったのでした。めでたし、めでたし。一方のやもめも一人息子と共に幸せに暮らすことができるようになったとさ。めでたし、めでたし。夜来の雨も上がり、ザビエル教会のバザーは晴天に恵まれ盛況裡に終了。めでたし、めでたし。

とりとめのない独り言。

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