ベトナム2日目

いつくしみの扉今日は特筆すべきことが多い。ミカエル司教様のコントゥム教区に行く日の昨日の朝、ゲストハウス近くのいつくしみ教会訪問。いつくしみの扉は鹿児島の貧弱さばかりが目立った。

中に入ると、数人がいるだけ。1人の男性がどうやらいつくしみの連願らしいのを唱えていた。祭壇中央に目を向けると、聖人の聖遺物らしいのが祭壇前の顕示台に安置されていたが、等身大のいつくしみの御絵が左奥に置かれているので、ファウスチナのものかもしれない。あんな大きなものが鹿児島にも来るのかと驚いた。それにしても、聖ヨハネ・パウロ2世は影も形もない。

30分ほど祈って外に出るとクリスマスの飾り付けに余念のない人々が忙しなく立ち働いていた。なるほど、名の通り、右奥には少し色あせているが見慣れたいつくしみの否が応でも祈りたくなる御像が。左手奥にも椅子の置いてある広場らしいのが見えたので行ってみた。

かなり広い広場の周囲には大きな十字架の道行。中央にはやはりいつくしみのロゴ。アン神父さんの話だとアジアの教会にはよくあるそうで、特別の記念日にはそれにまつわる信心のために使うのだという。共産主義の国にいることを忘れさせるほどの熱い信心の世界に浸りながら出口に向かうと、10組ほどの馬小屋セットが置かれていjた。手作りらしいので馬小屋コンテストがあったのかも知れない。

何にもない日本教会のスマートさはどこか冷たい。泥臭く生活感に満ちたアジアの教会には人をホッとさせる暖かさがある。もっとも、赤い聖体ランプ以外何もないがらんとした日本の教会でも十分祈ることはできるのだが。

今にも泣き出しそうな、両手を失ったままのマリア様。素朴さといえば、午後に訪ねたマリアセンター。そこで見たのは垢抜けしないまさに素朴なマリア様だった。何よりも、今にも泣き出しそうな表情が印象的だ。これまで全く見たことない顔立ちのマリア様。両手を失ったままというのも痛ましかった。町の中心から2時間も行った少数民族が住む山の中にそのマリア様はおられた。話は40年ほど前にさかのぼる。(続く)。

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☆神に仕える身でありながら、カミガミ(紙々)の要らない世界を標榜する人間の一人として、電子メディアに自分の思いを綴ることは大きな喜びです☆本を書かない代わりにここでいろんなことを書いてみたい。

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