水の心に

それでも!Blog

車窓から見た名も知らぬ川。「水は…さまざまな姿で働きます。水はやしの木とぶどうの木の中に別々の姿となります。水は、すべてのものの中にすべてとなります。…雨を受けるもののありさまに自分を合わせ、それぞれのものに適したものを生じさせます」(今日の教会の祈り第二朗読)。4世紀の司教エルサレムの聖チリロの教話。キリストの神性を認めない異端と戦って教会一致に貢献した聖人。

彼の紹介をしたいのではなくて、大げさな言い方になるが、水を巡る彼此の違い。周りに逆らうことなく自在に形を変える水の持つ性質は教訓に満ちていて、何度か耳にしたことがある。“水はつかめません 水は掬うのです”という讃美歌もある。そんな水に対する畏敬の念は洋の東西を問わず時間を超えて変わらない。

日本では、「人もそうでありたい」という人生訓で結ばれることが多いと思うが、聖チリロは違う。「これと同様に、聖霊もそれ自体唯一で、その姿はいつも同じで分かたれないものでありながら、望みのままにさまざまな賜物を一人一人に分け与えるのです」(同上)。

ついこの間、キツイ教育的指導をした後だけに、今朝はこの言葉に触れて少しシンコクになった。彼を生かす命の水となったのか、吐き出したくなる苦い水にすぎなかったのか。おそらく、後者だったに違いない。

「地は混沌であって、闇が深淵の上にあり、神の霊が水の面を動いていた。」創世記の書き出しはボクにとっていつも希望のもとだ。創世記の記述はドラマだ。混沌から秩序へ。日本語もままならない彼が受けた苦い水を聖霊が甘露に変えてくださるように。ミサの意向。

ともあれ、水の心になりたい。

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