昨日届いた”帝国大学の朝鮮人”の衝撃
著者は韓国人で大学の先生。「大韓民国エリートの起源」という副題に強く引かれて購入したのだが、プロローグを読んだだけで、これまでの自分を恥じた。「日本が長く占領した国はどこも発展している。」実際そうかもしれないが、
そう評価する自分の中には、日本の植民地支配をどこかで評価しているところがあったことに気がついたからだ。その評価も間違っていないとは思うが、「日本はやっぱりすごかった」で終わっていたことを羞じたワケ。
玄界灘を渡った青年たち。プロローグのタイトル。書き出しのタイトルは”植民地留学生の苦悩、志士か出世か?”常識的に言って、後者だったに違いないと思えるが、実際に、留学は「立身出世のチケットを握ること」(5頁)だったという。
次小節のタイトルは、もう少し刺激的で、”植民地(人)/帝国(エリート)の間の分裂”。「出世」と「志士」、「親日」と「抵抗」が共存する二つの要素であったかもしれないと著者は述べている(7頁)。やはりそうだっただろうなあと思う。
現実はどうだったのか。「朝鮮人お断り」「日本人に限る」などの貼り紙が多く見られたと知ったとき、はじめて留学生たちの屈辱と悲しみの深さに思い至って胸が痛んだ。こうした人々が帰国後の国作りの中心になった。
すべて紹介できないのは残念だが、日本は「謝った」と言うが、こうした過去の人々の受けた悲しみの深さに思い至ったことがあるのだろうか。
いずれにしても、「いいことをしてあげた」という単純な発想ではなく、「帝国大学は、近代日本のエリート育成装置であった」(9頁)という事実の功罪を日本人学者も丁寧に整理して発表する義務があるのではないか。
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