多くの人にはどうでもいいことかも知れないが
また悪口めいてくるので気が引けるのだが、ひょんなことからベトナム語の勉強を始めて気が付いたことだが、日本語のミサ典書の祈りは、ベトナム語のそれに比べると淡泊すぎる。例えば回心の祈りはベトナム語の直訳は下記のようになっている。
兄弟姉妹の皆さん、聖なる祭儀を祝うために、わたしたちの罪を認めましょう。私は、全能の神と兄弟姉妹の皆さに告白します。私は、思い、ことば、行い、怠りにおいて多くの罪をおかしました。それは私のせい、私のせい、全面的に私のせいです。どうか、生涯おとめ聖マリア、天使と聖人、そして兄弟姉妹の皆さん、神なる私の主の台座の前で私のために祈って下さい。
規範版に忠実かどうかボクは知らない。しかし、そういうことよりも、ベトナム司教団の心というか神の前でのわが身の至らなさを深く感じている様子がうかがえて、それに「主の台座の前で」という表現に今なしていることがいかに神聖な業であるかが伝わってくるではないか。ともあれ、
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