プユマの皆さんの日本語で歌う唱歌には胸が熱くなったが、聞いたことのない歌もいくつかあって、しかもメロディーは原住民のもの。学校の先生たちが田植え歌や陽気な小唄を教えたとは思われないが。腑に落ちなかった。声のいい隣のご老人(82歳)に、日本が何年統治したのか聞くと、「50年!」”きっぱりした返事”が返ってきた。一世代かー。なるほど少し合点がいった。
日本統治下末期に生まれた子供たちにとって日本語はすっかり母国語。だから、いわゆるはやり歌が作られて歌われるのも日本語。メロディーは先祖伝来のプユマ調。そういうことだったのかと自分なりに少しナットク。
子供の頃何度も会ったことのある母の叔父は長身で穏やかな人だった。その叔父は確か台湾総督府の役人だったと記憶している。母が、女学校の夏休みにその叔父を頼って、ナントカ丸で台湾旅行に行った時の話を子供の頃聞いたことがある。だとすると目の前で歌い興じている皆さんは当時小学校の2,3年生。時間的にもつじつまが合いそう。支配者の子供と被支配者の子供たちが時間を同じくしていた。複雑な思いながら、不思議な親近感がわいた。
ともあれ、何の屈託もなく、日本語の唱歌を歌い、自分たちの故郷が、見たこともない日本の一部だと信じていたからニッポンジュウヲテーラスだったのか。やがて、「そうではなかったらしい」と知った時は子供心にも違和感を覚えたはず。歴史に翻弄された幼少時代。しかし、底抜けの明るさはそんな痛みを感じさせない。それどころか、優しく親切。おもてなしの極み。だから胸がいっぱいになった。
こうして振り返ってみると少し整理がついた。しかし、書くことはまだまだある。
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