「任意」とは「その人の意思に任せること」だが要するに

「どうでもいいこと」

「そんなに軽くあしらってもらってもね……。」反論したくなることがある。実は、今日は聖ヨハネ・パウロ2世教皇の記念日。母国ポーランドでは盛大なお祝いがなされているはずだ。しかし、日本では「任意」となっているので、どうでもいいことになっている。

腑に落ちないのは、聖ヒエロニモ司祭教会博士(9月30日)の場合は記念日として世界中で祝われる。また、聖イグナチオ司教殉教者(10月17日)も記念日。前者は、司祭、修道者はともかく、どこの誰か一般信徒にとっては全く知られていないのではないか。「聖ヨハネ・パウロ2世」は日本中の信者だけでなく、世界中の認知度は高い。なのに「任意」。どうして?

個人的すぎるが

司教叙階の翌年だったと思うが、日本司教団のバチカン詣での年は。各司教が教皇と15分間面談して教区の事情を報告する。イタリア語の分からないボクとしては通訳が必要。事務局長に同行してもらった。

「あなたの教区はどうですか?」なんと、教皇は英語で質問されたではないか。「鹿児島は1549年8月15日にフランシスコ・ザビエル様が初めて上陸された記念すべき教区です」に始まって概要を説明した。

「ところで、若者たちはどうしていますか?」と聞かれたので、事務局長にバトンタッチしてイタリア語へ。そんな思い出の教皇でもあるので、「任意」には極めて不本意。で、ささやかな抵抗?入祭唱は「…教皇の取次ぎを願って祈りましょう」で始めたワケ。

一日遅れのフルムーン

一日遅れのフルムーン

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