信徒は司祭の援軍ではない
いずれも8日付のカトリック新聞からそのまま拝借した。「信徒の方は最下位にいるのではありません。全く違います。」そして「司祭の援軍ではないのです。全然違います」と続ける。「全く違います」、「全然違います」と二度もつよい否定形が。注目したい。
敵は本能寺にあり。明智光秀が主君織田信長を撃った時の言葉だそうだが、教皇フランシスコに手を焼いているのは周りの枢機卿たちだと聞いたことがある。「えーそんな馬鹿な!」と思ったものだが、分かるような気もした。
それはともかくとして
「何があっても驚かない、パニックにならない」を旨とするのが信者として生き延びるコツだとは思う。なぜなら、枢機卿とはいえ、所詮弱い生身の人間だからだ。もっと言えば、誰であろうと、知識の多寡、いや、教皇の言葉を借りれば、「カリスマの違い」はあっても神様と比べたらみんな未熟者だからだ。
なのに、信者の中のごたごたが絶えないのはどうして?誰かが「自分以外は未熟」と思いたがるからだ。大人が「未熟者」と言われることは屈辱以外の何ものでもない。だから、口にしてはいけない言葉の一つだ。しかし、各自が心の中で確認すべき事実ではある。
みんな未熟者
教会を平和にキープするための魔法の言葉。教会は未熟者の集まり。だから共に肩を寄せあって支え合うので、一流も二流もなくみんなが本流。これでどうかな。
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