主の受難は時空を超えて
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祭壇前の紫の台に十字架安置
今夜のみことばの祭儀は印象深かった。福音はヨハネによる受難。解説のNさんが感極まって声を詰まらせたからだ。「成し遂げられた。そして、頭をたれて息を引き取られた。」異変?に気がついたのはこの後だったように思う。(頭を下げてしばらく沈黙のうちに祈る)の後、朗読が途切れがちになり、声の調子も平常でなく明らかに感涙にむせぶ様が手に取るように分かった。さすが、教職経験者。しっかり務めを成し終えた。母親になった人にとっては、我が子が目の前で血を流し、息絶えていく姿を見届ける気丈夫なマリア様に感動したに違いない。主の受難という悲劇?は時空を超えて人の心に届く生きた現実。短い説教は余計な感じがしたので、「マリア様の苦しみを味わいながら主の受難を黙想しましょう」と呼びかけた。
普遍性に包まれて

ベトナム制作の聖母。ザビエル聖書の庭
今夜も若いベトナム人女性が5名も来てくれた。地元信者を含めて20数名。かねて見える人はほぼ全員参加。昨日、今夜のために多めの御聖体を用意したつもりだったが、読みが甘かった。5名ほどは半分分けという嬉しい誤算。それにしても、あの共産党支配の国からこうも沢山の信者が来るとは驚きだ。そして熱心。古里を離れたら口うるさい親もいないことから教会卒業が常態化している日本とは大違いだ。復活祭にはアオザイ姿で来ると明るく笑って分かれた。バスで来たが帰りは信者が送るという。カトリックの普遍性は誰をも親しく結ぶ。
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