聖書が書かなかった福音は興味深い

主の晩餐の夕べのミサと洗足式。いつもとは違うメッセージを受けた。受けたというのは、マリア・ワルトルタによる「イエズスの受難」(フェデリコ・バルバロ訳)#12「過越祭の晩餐」を読んだからだ。

時が迫るにつれ、ユダの言動は弟子たちの間に疑心暗鬼を増幅させるがペトロだけは別。晩さんの席での主のみことばに状況がつかめず、困惑するばかりのペトロをあざ笑うかのように豪胆なほどの落ち着きを見せるユダ。そんなユダにいらだちを募らせる弟子たちとは対照的に主は冷静。「今、天使たちは皆主に呼び戻されています。いまは、悪魔たちの時です。…悪魔たちは、今この時間の主です」(182頁)。

そして、洗足が始まる。「今から行う清めは、もはや清い人をもっと清めるために役立ちます」(184頁)と言って、主が最初に洗ったのはあのユダの足。「今からでも遅くない。目を覚ましてほしい」と言いたかったのかもしれない。いまだに状況をつかめないまま大騒ぎをして洗足を拒むペトロに対してなされた訓の言葉はこうなっている。「…不浄の心を持つ人間の足は、不正の交際と犯罪へ向かう。そのために、足は体の中で目と口と共により多く清めなければならない」(185頁)。

そういえば、「足が向く、向かない。足しげく通う。足が遠のく」など、いずれも心の有りようを反映している。心が向いているところに足も自然と向くのは真理だ。足がいつも神様に向いているように。“あ、それで洗足なのか”と腑に落ちた。もっとも、洗足式は、イエス様が「…あなたがたもするようにと模範示した」(ヨハネ13,15)とおっしゃっているのでそれ以上のことではないと思うが、何で足なのかはこれまであまり意識したことがなかったので、冒頭の「いつもとは違うメッセージ」は新鮮だった。

洗足式が終わると愛の教えが宣べられ、私につながっているようにというぶどうの木のたとえ(15,章)が続き、「あなたがたが私を選んだのではない、私があなたがたを選んだ」(16節)くだりでペトロが永遠の課題“ユダの選び”に言及する。

「私たちを選んだのがあなたならなぜ一人の裏切者を選んだのですか。「なぜ、ユダを救えなかったのですか?」(これはボクの疑問)。「…彼はサタンにおいて皆無になったものです。」主のこの返事は、「生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私のうちに生きておられるのです」(ガラテヤ2,20)の真逆というのが翻訳者バルバロ師の解説(312頁)。「なぜ、ユダのなすままにさせたのですか」という疑問には、「…贖いの前に人類を滅亡させるべきでした。しかし、そうしたならば、何を、誰を購えますか」(205頁)。つまり、主は、人類を滅ぼすことなく独りで十字架の死を甘受された。難しくなってきたが、要するに、贖いの神秘。

ミサ後、司祭館の住人で、種無しパンではなく、差し入れのシカの肉とワインで主の過ぎ越しの“まねごと”をした。

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