WYDは僕にとってなんだったのか(2)、滞在2日目で見たポーランドから

豊かな国ポーランド

教会の裏庭でとれた果物。ブドウもある。25日(月)聖十字架山に遠足。朝食の果物は、バナナ以外司祭館の裏で採れたもの。杏子にブルーべリー、ブドウにトマト、そいてリンゴ。主任司祭は「これもこれもみんな自然の物ばかり」と言いたいのだろうが、両手を広げながら「エコロジー、エコロジー」。リンゴは子供のこぶし大のものがほとんどで、改良されていない野生のまま。味はそこそこおいしい。無農薬なので丸かじりがいい。そういえば、いたるところで小さな実をつけたリンゴの木を見かけた。それに、どんな田舎を通っても、家も庭も日本とは比較にならないほど豊かな感じだ。貧しさのかけらも感じない。まるで、フランスあたりの田舎を行くみたい。

キエルチェについて

とろころで、キエルチェの人口は約20万。キエルチェと舌をかみそうな名前の由来が知りたくて、現地の教会でもらったガイドブックで調べてみた。「この地を発見したキエルチェ家に由来する」ということらしい。それよりも、興味深いのが歴史。もともとは、近隣から持ち込まれる産物や食べ物の売買がなされる市場を中心にできた小さな集落だったらしい。11世紀末、教会が建てられたことでキエルチェの重要性が増し発展することに。ちなみに、ポーランドがカトリック国になったのは966年とされる。

博物館は司教の宮殿

かつては司教館。なるほどキャッスル。12世紀前半になると、キエルチェ家は没落したらしく、キエルチェは王の手を離れ、なんとクラコフの司教のものになった。地の利を得ていたせいだと思われるが、司教はこの地を宣教司牧の拠点とした。司教館が建てられ事務局棟もたてられた。町の中心にある博物館は、「もともと司教の宮殿だった」という解説には、「司教の宮殿?」と違和感を抱いたが、王家を受け継いだとなれば、司教の住まいも王宮になるのは自然の成り行きだったかもしれない。それに、当時のフランス、イタリアでは司教が領主になる時代だったのだから。

司教は王様

夕暮れの旧市街。と言っても午後8時過ぎ。いずれにしろ、キエルチェ家は滅びても、町の名前として残ったということらしい。町は、鉄鉱石の産地として栄え、メインストリートは1820年代にはすでに石畳として整備されたという。付け加えると、18世紀の半ばごろまで人々は木造の家に住んでいたという。しかし、1759年、司教が「町の中心では煉瓦の家だけを建てるように」とのお触れを出したという。司教が文字通り王様として君臨していたことに驚くが、旧市街に見られる歴史的建造物がそうだったとは。キエルチェにこだわっていたら時間とスペース切れ。で、聖十字架山巡礼は明日に延期。

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