30数年前に思いをはせて始めたネットの旅はもちろん北ルソン

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先ず行きたかったのはあの道路

展望台から見たつづら折のケノン道路

展望台から見たつづら折のケノン道路

そうケノン道路。ケノンは当時工事を指揮したアメリカの将軍の名前。個人が運営する頁は写真の使用にも寛大に違いないと目星をつけて開いた「トリップアドバイザー」。アタリ!ただし、「トリップアドバイザー提供と記すこと」。

早速かつての思い出をたどってみた。やはり、上り下りに50分を要するというバギオへの国道ケノン道路。展望台からの写真は当時と同じ。今から100年以上も前、1500名の日本人が造った。37年前、初めて訪問したときはその子孫たちが数多く

活躍していた。当時の人々も高齢化し、多くの大人たちは天国かもしれない。彼らのお世話をしていたシスター海野も30ほど前に帰天された。彼女については別の機会に書きたいと思う。

今日はとりあえず、東アジア司牧研修所から体験学習でバクンに派遣されたことに関して書くことにしたい。途中をはしょってバスはもうケノン道路へ。これからが本論。

1983年12月15日 そうこうしているうちにバスはやがて、80年前、1500名の日本人を投入して造られたというケノン道路にさしかかった。麓のラユニオンと標高1500mのバギオを結ぶ約33キロの道のりだが、難工事だったそうで

100mおきに死者が出たという。上りも下りも50分と聞いた。確かに激しい蛇行を繰り返すさまは当時を偲ばせた。こうして昼過ぎついに天空の町に着いた。バスを降りると、立派な口ひげを生やした西部劇さながらのカッコイイ小父さんが

ジープニーから声をかけてきた。「近くだからいい」というのに「いいから乗れ」という。ものの4,5分で司教座聖堂に着いた。「いくらか」と聞いたら「5ペソだけどクリスマスプレゼントだ。いらないよ」と笑顔で走り去っていった。やはりキマッテいた。

バギオは高地。すぐにこうした光景が眼下に広がる

バギオは高地。すぐにこうした光景が眼下に広がる

ここで一行の世話を任されているというシスターテッシ-を尋ね当てるのに少し時間はかかったものの、なんとか、シスターが勤務するカテケージスセンターに落ち着くことが出来た。そこで、我々一行は彼女の指示に従うことになっていた。

山のどの地域に派遣されるかは彼女に任されていたからだ。センターに隣接する修道院から現われたシスターは、てきぱきと仕切るタイプかと思っていたが、イメージとは違って小柄で愛くるしく好感が持てた。同じ研修所の卒業生だということも親しみを感じさせた。

二人のシスターはイフガオへ、ブライアンは棚田で有名な北のボントックへ、それぞれ明日早朝に出発することが知らされ、私は、同行の司祭を一日ここで待機するよう言い渡された。(続く)

 

 

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