バスはホコリを巻き上げながら走りに走ってついに終点に着いたのだが・・・

約20分後、バスは狭い山の国道に挑むかのように

うなりを上げて力走を再開した。30分ほど走ったところで、キブンガンという村に着いた。ここががバスの終点で、あとは4時間ほど歩くことになるらしい。4時間と聞いて驚いたが、ゾロゾロとみんなで1時間ほど歩いたところでトヨタの小型トラックがやって来た。

この村の区長さんの計らいで、木材会社のものを調達したのだと分かった。「これで歩かずに済んだね。」神父さんは、ニコニコしながら当然のように助手席に収まり私を招いた。荷台の方は人と荷物で大混雑している。女性もいるので、

「誰かと代わろう」と言ったが、神父さんは「大丈夫だよ。司祭に対する尊敬だから」と気にする風でもない。そんなものかと思ったが、あの謙虚で心優しい「フランシスカン」の異名を持つ神父さんの言葉には、司祭に対して当然払うべき信者の心情を違和感なく汲み取っている優しい響きがあって、むしろ好感が持てた。

そうこうしているうちに、国道よりも遙かに険しい山道を駆け抜け、ものの30分もしないで今日の目的地のパリーナに着いた。時計は6時を回っている。辺りはもうすっかり暗くなっている。

昨日の散歩の時のサルスベリ

昨日の散歩の時のサルスベリ

「これが僕らの修道院」と笑いながら神父さんが案内した小さな家は、総トタンばりのがっしりしたもので、実は信者たち手造りの司祭館だと分かった。やはり手造りの丈夫なテーブルのある6帖ほどの集会室を挟んで寝室が二つ、

その向こうが食堂、更にその奥が台所になっている。食堂の回転式円形テーブルも腰掛けも、何もかも手造りなのがいい。しかも、がっしりしてよく出来ている。トイレが水洗式なのには驚いた。といっても、溜めたバケツの水で流すというものだが、清潔でいい。

150家族全員が信者で、近隣四つの共同体(巡回教会)を束ねる母教会だと自負するだけあって素晴らしい設備だ。水はチョロチョロだが水道も引いてある。12月、山の水はさすがに冷たく、それでも小さなバケツに何度か溜めた水のシャワーでさっぱりすることが出来た。

夕食後、村長さんや小学校の校長先生、数名の信者たちが訪ねてきた。印象深かったのは、村長さんも校長先生もみんなジーンズにTシャツ、履き物はビーチサンダルという、全く貧富の差を感じさせない質素さ。そのうちの一人はバクン教会の信徒代表のホセさん。道案内のために来てくれていたのだ。

これも指宿。ニワトコが満開。

これも指宿。ニワトコが満開。

また、赤銅色の肌でいかにも現地の人という感じのふんどし姿の小父さんもいて、戦争中のことを覚えている数少ない一人だということだった。戦争といえば、この村は敗走中の日本兵が立ち寄ったところで、ふんどしの小父さんは、子供の頃、

日本兵が食料を奪い、村を去る時、家々に火をつけるのを物陰から見ていたという。私を見て当時を思い出したのだと言ったものだから、「戦争の話は止めよう。神父さんが苦しむだけだから。」校長先生の言葉にみんな同意したものの、しばらくすると、ふんどし小父さんが「あのときは怖かった」と身を震わせるのだった。

日本に対する興味は尽きず、様々な質問が飛びだした。「日本では海が陸になるというのは本当か。」あまりにも唐突な質問に埋め立てのことだと分かるのに少々時間を要したが、「日本にもカトリック信者がいるのか」という質問には、

「いますよ」と答えたものの全く面食らってしまった。というのも、「日本人は畜生にも劣る野蛮な人間」と教えられていたので、そんな国から信者どころか司祭が来ていることに頭の中が混乱していたのかもしれない。そういえば、中には6時間も歩いて私を見に来たという人もいたが、やはり、同じような心境だったに違いない。(つづく)

*当時の写真が一枚も残っていないので悪しからず。想像しながら読んでください。

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