1951年といえばボクは9才。初来日から4年が過ぎていた。

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戦後奄美に司祭が戻ったのは1947年

第一陣はオーバン神父さんとフェリクス神父さんの2人。当時奄美は復帰前でアメリカの占領下にあった。名瀬には軍政府が置かれ、我が瀬留の村にもアメリカ人たちが通訳と一緒に鴨猟に来ていて、「シーハン(長官の名前)が来ている」と聞いて見物にいったのを覚えている。

左オーバン神父さん右フェリクス神父さん後のレイ司教

左オーバン神父さん右フェリクス神父さん後のレイ司教

1951年のオーバン神父さんの手紙で初めて知ったことだが、この年が、奄美にフェリエ神父さんによって初めて福音が伝えられて(1891年12月31日)60年に当たることから記念の祝賀会が計画されていたという。しかし、当時の状況から判断して中止されたらしい。

というのも、当時、共産党を中心に日本復帰を望む声が上がっていて、神父さんたちの耳にも「信託統治絶対反対!」の声が届いていたらしい。そういえば、「シンタクドウチゼッタイハンタイ!」は子どもの私たちの耳にもなじんでいたように思う。そんな中での教会建設や記念行事などには大変気を遣っておられたらしいのだが・・・。

「スターリンに助けてもらおう」という人までいたというから驚く。しかし、共産党員たちのそんな動きを神父さんは全く無意味だとしている。「だからこそ郡山のような男たちが平和条約が結ばれるまでは沈黙と忍耐しかないと言っていることを奄美を愛する人々は信じているのです」(175頁)。

このあたりの脈絡はつかめないが、共産党のリーダーは「中村安太郎」という人で、何故か父の友達だった。「主義は違うが」と言いながら「ヤスタロウ」と呼んで親しくしていたのを覚えている。共産主義の原点が聖書の原始共産制(使徒4.33-35)にあると言われるだけに2人が共通点を認識していたということなのかも知れない。

ともあれ、記念祝賀会中止の詳しい経緯は書かれていないが、こうした状況下で実行する事は「リスクが大きい」と判断されたらしい。このあたりのことを巡っての神父様の悩みは深いモノがあったようでそれについては次回。

御領ヶ池のホシハジロ

御領ヶ池のホシハジロ

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